女友達へのラブレター

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 16.2017 人いろいろ/人間
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「私にとっての友達はいざという時思い出してくれる人かな。」  高校時代の女友達が、私のブログを読んでこう言った。
深く同意する。私は、卒業後ずーっと会っていないそのとものことを、時々「どうしてるかな」と思い気にかける。そう思っていた矢先に届いたメール。お互いに思い出してはメールでおしゃべりする。思い出すだすだけでなく、お互いにやり取りをしないと「友達」とは私は呼べないけれど。思い出すだけなら「過去の友達」なので。

2年前に読んだ角田光代の「対岸の彼女」。
この本を読んだ時に、彼女にすごく話したくなった。一番話したかったのだけれど、小説の重さをすぐに頭の中でこなせなくて、どこから書いていいかわからなかった。
主人公の現在と、高校時代の女友達との思い出が交互に綴られる。特に高校時代の描写が秀逸。久しぶりに小説でボロボロ涙を流した経験をしたのだが、先ほど読み直してまた泣いた。

主人公の葵は、現在はベンチャー企業の女社長。キビキビさっぱりの性格でどこか男勝り。
だが、彼女の高校生時代の姿はぜんぜん違う。この高校時代があるから今の葵なのだな、とわかる。今の葵は、高校時代の親友ナナコを彷彿させる。

葵の唯一の友達、ナナコ。女学校の入学式の時から気さくに葵に声をかけてきた、背が小さくて痩せっぽちの、ショートカットの女の子。
中学時代のいじめが原因で、何かを恐れて人と付き合う葵。一方、誰ともつるまない、どこのグループにも属さないナナコ。一風変わったナナコと学校で表立って付き合うことをせず、放課後だけ会う。そんな卑怯な葵を、ナナコは責めもしない。
なんのことも悪く言わないナナコ。嫌いだという表現よりは好きだという表現をするナナコ。ネガティブにものを捉えないナナコ。学校でいじめられることなど「私なんにもこわくないの。そんなとこに私の大事なものはないの」と言い切るナナコ。
いじめられた経験をしてきた葵は、きっとナナコという人間は、綺麗なものばかり見てきたんだろう、と思う。汚いこと、醜いこと、ひどいことを見ることなく、大事に守られて生きてきたのだろう、と。

ところが、ナナコの家庭環境は正反対だったことを知る。誰にも守られず、見る必要のないものまで見て一人で成長してきた。
おまけに、学校ではナナコの家庭環境のせいで総いじめまでが始まっていた。
あっけらかんと笑い転げ、おばさんのように話し続け、一緒の夏休みのバイトで働き続ける明るいナナコが、ある時涙をポロポロこぼす。ガラスのように繊細な心を持ったナナコの本来の姿に、葵は絶句する。

葵の語るナナコの描写は、男と女のそれとは違うのだけれど、ちょっと淡い恋心にも似た気持ちが入り混ざっている、というように私は感じる。
スカートから出たまっすぐな足。童顔の顔。クラスのゴタゴタなど関係ないそぶりを見せて窓の外を見ている横顔の美しさ。媚びない潔さ。度胸のよさ。知識の豊富さ。大胆さ。そして彼女の心の空洞にまで、葵は惹きつけられる。

私が過ごした高校時代には、見かけとか性格とかナナコのような、ナナコそのものみたいな子はいなかった。
だけど、どこかしら、部分的に誰かを思い出す。我々のいろんなかけらを持ち合わせた女の子が、ナナコのような気がする。ボーイッシュで笑顔の可愛い子がいた。スカートからまっすぐな細い足を出した清潔な子がいた。何が起こっても冷静で、自分の世界をしっかり持って誰にも混ざらない子がいた。
私にも、ナナコの言動に非常によく似たところがあり、親しみを感じてしまう。
「大切じゃないものって本当にどうでもいい」ところとか、「本当に大切なものは一個か二個であとはどうでもいい」ところとか。「私の大切なものはそんなとこにない」と、ちょっと浮世離れしたように世間には思えてしまうだろう態度を取るところとか。私の高校時代、そうだったから。

ある事件が起きて、葵とナナコはバラバラになり、ナナコは転校する。
しばらくしてやっとの再会で、ナナコは自分の「大切な場所」に葵を連れて行く。それは近所にある、葵とナナコもよく過ごした川。ナナコが見て育った川。
朝の7時になると、川には空が映り、すごく綺麗な色になる。それを、ナナコは葵に見せたかった。8時になると元どおりの色に戻ってしまうから、と。
毎朝、小中高校時代と、通学途中授業が始まる前に、7時に河原でこの色を見ていたナナコ。小中時代のナナコを葵は知らないが、その姿さえ目に浮かぶ。
この川のシーンの友情の描写には、私は涙が止まらない。ナナコがものすごく愛おしくなる。葵の気持ちになる。
こういうことを「大切にする」ナナコ。こういうことが「大切なもの」だったナナコ。

「川に映る空。そこに立っていると、空の上にいるような気分になる」というナナコ。
私も川に映る青空と雲を見て、夕焼けを見て、地面に空があるような不思議な感覚を味わうのが好きだ。
雪で地面が真っ白になった時、雑木林に行って長ーく伸びた木の影を眺めるのが好きだ。日が高いうちは影が伸びず、日の沈むちょっと前にいい影が伸びてくれる。そのわずかな瞬間の雪原のシルエットを見るための、私の秘密の場所を持っている。
この川のシーンを読んだ時、ああ、ナナコを抱きしめたい、ナナコと話したい、と思った。ナナコは友達のかけらでもあり、自分でもある。

入学式の時に葵は、よく喋るナナコを、「おばさんみたい」と思った。「この世の中のことはどうでもよくて、どうでもよくない狭い世界には、悪意や疑念など七面倒くさいことはこれっぽっちも存在しないのだと、思い込んでるようなおばさん」と。
その「おばさん」の正体は、川に映る空を毎朝7時に眺め、「私の秘密の場所」とする女の子だった。

大人になった女たちが、高校時代のガラスの世界の自分たちを、愛情を込めて抱きしめる。そんな小説。
教室に響くケラケラとした笑い声や、廊下ですれ違った時に見せる満面の笑みや、健康的な肢体だけで我々は成り立っていたわけではない。心に持っている棘もガラスの破片も牙も、今よりももっと鋭かった。
すぐに壊れてしまう不安定で拠り所のない気持ちを、屈託のない笑顔で隠していた。
この小説を読んで、その女友達を思い出したのは、やっぱり彼女にもナナコの欠片があったからだ。私と彼女は全然違うのだけれど、彼女も「ナナコ」を持っている。

「私たち、どこにもいけなかった」と再会の時にナナコが葵に言う。
どこかに逃げ出したくても、それすらも自由にならない高校生のあの頃。どこかに行きたくても、どこへ行こうとしているのかもわからないあの頃。
もがき苦しみ傷つく。自分の不甲斐なさに傷つく。
そんな哀れな脆い時代も、あと数年して大人になれば解放される、ということを想像できないあの頃。
思いっきり自由になれない中でもがきながら笑った時を過ごした友達というのは、かけがえのない存在だと思う。

女の友情より、男の友情の方が深い、と先日書いた。実際に、男の友情の方が絵になるので、映画だってそういう話が多い。
女の友情ものは男に比べると数少ないが、この作品は数少ない優れたものだと思う。
映画の女の友情ものはいくつかいいのがあるけれど、小説でのトップの一つに、私は「対岸の彼女」を挙げたい。


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親友

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 15.2017 人いろいろ/人間
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「友達」の定義が人それぞれなのだから、「親友」の定義も人それぞれの「友達の定義」によって変わってくる。
いずれにせよ、友達の中でも特別なことは確かだ。

私にも親友がいるが、何が単なる「友達」とは違うのか。
色々理由はあるけれど、長い月日の中で培ってきた信頼関係というのが一番大きいだろう。
この「信頼」というのは、「この人はまともな人だから信頼できる」という類の信頼ではない。お互いにだが、いいところもダメなところも知っており、何をしようが何を考えようが、受け入れて受け入れてもらえる、全てをひっくるめて人間として信頼して信頼してくれる間柄。だから親友の前では、人に話さないようなことも話せる。

男と女の友情には違いがある。男の友情というものは、私が嫉妬するほど固い絆で結ばれている。それは性の違いなので仕方がない。女にはそういうものは築けない。きっと必要ないから築かない。
男というのは、子供の頃から遊びかたが違う。兄弟と姉妹も違う。男同士の喧嘩の仕方、殴り合い、仲直り。体当たりで彼らは成長していく。友達に腹が立って殴るという行為。これは女にはない。殴り殴られ、取っ組み合いであざを作って疲れ果てる。これはすごいコミュニケーションだと思う。残念ながら、女の人生にはそれがない。

私は、親友がいない男というものを信頼できない。
もうそれは、男としてダメなんじゃないか?って思う。同性に頼られない男。同性に尊敬されない男。同性に愛されない男。同性に慕われない男。。。。。  どんなに異性の友達がいても、同性から好かれない男は魅力的でない。

男の親友というのも、きっと長年かけて培ってきた関係だろう。幼馴染。中学高校からの同級生。。。。
そいつの前では涙を見せられる。弱いところも知っている。彼女も紹介できる。お互いの家族も知っている。喧嘩した。取っ組み合いもした。怒鳴りあった。口聞かない時もあった。一緒にやんちゃした。悪いこともいっぱいした。一緒に女の子を追いかけ回した。お互いにひどいこともしあった。頭に来ることもたくさんある。信じられないこともたくさんある。だけど、コイツはすごいんだ。尊敬できるんだ。愛する親友なんだ。大好きなんだ。
男が自分の親友のことを語る時、それはとても嬉しそうだ。私はそういう男を信用できる。そういう親友を持つ男を信用できる。
短期間ではできないもの。女にとっての親友だってそうだが、男のそれはもっと濃いのだと思う。

大抵男というのは、色々と話していると必ず自分のベストフレンドの話が出てくる。「俺の親友がさあ。。。」と。家族の話をするよりも先に親友が出てくるかもしれない。
一度だけ、よく話していた人だったのだが、全然親友の話が出てこない男性がいた。「友達」は出てくるのに、何年経っても肝心な「親友」が出てこない。
ある時聞いた。「親友はいるの?」  答えは「ノー」だったが、そのあとに私の名前を言った。
いや、私は違うでしょ。私はその人のことを全く親友だとは思ってないもの。
「男はさ、親友を持つべきだよ」と言ったけれど、彼に「持つべきだよ」と言って、「さあ作りましょう」と親友などできるはずはないのだ。でもきっと彼は、「よーし、親友を作るぞ」と思っちゃうタイプの人なのだった。
話していても「何かが足りていない」と感じる人だったのだが、その彼の足りていない「何か」が私もはっきりわからず、ついついいつも話をしていた。足りない「何か」はいっぱいあれど、その足りない結果が「男なのに親友がいない」ことなんだろうな、とその時思った。

どんなに頭が良くても、どんなに筋肉美を持っていても、どんなに仕事ができても、地位や名誉やお金があっても、親友がいない男は信用できない。
魅力ある男には、絶対に男が寄ってくるものだから。絶対にそいつを見捨てたりしないから。困った時に、弱った時に、同性から助けてもらえる男というのが本当にいい男なのだと思う。楽しい時だけ一緒にいてくれる奴らは、友達ではなくてパーティだ。弱った時に手を差し伸べてくれる同性の親友がいる男。そういう男を私は信用したい。


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「友達」の定義

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 14.2017 人いろいろ/人間
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「友達」の定義は人それぞれある。この定義がそれぞれ違うものだから、同じ日本人同士で同じ単語を使っていても、会話で誤解を生んだり、相手の言うことが分からなかったりすることがよくあるのだ。

私の「友達の定義」。
まず、ご飯を一緒に食べたことがない人は友達とは呼ばない。打ち合わせとか仕事がらみではなく全くのプライベートで、二人で何度か食事に行ったことのある間柄は友達だろう。
友達とは基本サシで話が色々進む人。私は気の合う人とは二人きりで話をすることを好む。多くても3人まで。4人以上はパーティだ。
パーティというのは社交とか付き合いで、社会生活には必要なことだろうが、そこにいる誰かさんたちは「知っている人」かもしれないが、友達ではない。
同じパーティでも、そこにいる人たちそれぞれと、二人きりで何処かに行ったり食事をしたことがある人たちで、そんな彼らがたくさん集まった場であるならそれは最高だ。二人や三人の時間とはまた違う濃い時間が流れる。
4人以上のグループで「しか」食事したことのない人は、友達ではなく「友人」である。私は、「友達」と「友人」を区別しており、「友達」は親しい相手、「友人」とは友達の友達を含めた、「知人」よりはプライベートのおつきあいのある人たち。

サシで何度か食事に行ったことのある相手。一度や二度でなく、何度か。それは楽しいから「また会おう」ということなわけで、一緒に食事すると美味しいから何度も会うわけで、何度あっても話が楽しく尽きない人というのは友達なのだ。私にとってはこれ大事。
だから、「友達」と呼べる人はそうたくさん入るわけではない。たくさん欲しいとも思わない。たくさんいないからこそ、「友達」という言葉も大切に使う。大切に使いたい。
「彼氏」という言葉を自分の恋人にだけ使うように、「友達」と「ただ知り合った人」を同じにしては「友達」に失礼だもの。

「誰それと友達になった」という言い回しを使う人がいるのだけれど、これがよく分からない。こういう風に言ったことがないから聞くたびに違和感を覚える。
「友達になった」をよく使う人は、「誰それとお友達になりたい」とよく願う人なのだろう。友達が欲しい。あの人とお友達になりたい。だからその人と話ができたり、その人に自分を知ってもらえると、「友達になった」と言うのだろう。申し訳ないが、なんだか気持ち悪い。だって、「友達」って「結果の状態」だと私は思うから。誰かさんと知り合って、話が合うからよく食べに行って、楽しかったからまた会って、そんなことがしょっちゅうある時もあれば、頻繁でなくても定期的になんだかんだと続いて、やりとりして、気づけば何年もそんなことしている。そんな時、その人は「友達なんだな」って思う。知り合って時間を一緒に過ごし始めた当初から、「この人と友達になった」なんて思わないのである。

とある人が、「●●で一緒になった▲くんと、友達になったんだー」って言っていて、私はその時自分の定義で考えていたから、「へえー、そんなに短期間で誰かと友達になれるんだー」って感心したことがある。すごい超特急で二人で飲みに行ったり、悩みを打ち明ける仲になったんだなあ、って。
よく聞いたら、「ジムみたいなところでよく顔をあわせるから話すようになった」程度のことらしい。それは私にとっては、「友達」ではなく「知人」である。友人でもない。
人それぞれ「友達の定義」があるからいいのだけれど、このようにやり取りで取り違えることがあるから、ややこしいとは言える。「友達」の意味の範囲が広い人もいれば、私のように使い分けてとても狭い人もいる。

このようにいろんな定義の人間が混在する世の中だから、時々勘違いされる。
私が「知人」と思っている相手が、私のことを「友達」と思っている時。
「知人」に「友達」呼ばわりされた時は、かなり戸惑う。一度しか会ってないし。。。。しかも大勢で食事しただけだし。。。みたいな。

「友達がたくさんいる」って人は、すごく「友達」の垣根が低い人なのだろう。したがって、私は「友達」と呼べる人は少ない。少ないけれど、彼らは本当に友達だ。
私は友達が多いよね、と人によく言われる。多そうに見えるらしい。それは違う。多いのは「知人」や「友人」なのだ。

「友達って少なくていいよね」「友達ってあまり必要ないよね」と言う人とは気が合ったりする。価値観が同じだな、と。少なくとも、「友達が欲しい」「誰それと友達になりたい」と喘いでいる寂しい人間よりは、ずっと仲良くなれる。
「私は友達が多くて幸せだー」と叫んでいる人間ほど、深い付き合いは少ないはずだ。そうだ。私のことを勝手に「友達」と呼んでいた人が、「私は友達が多くて幸せだー」と言っていた人だった。

「友達になれる」というのは、「友達になろう」って目的を持って成し遂げるものではなくて、「結果」なのですよ。人間関係は、結果。
表向きだけの関係を狙う人は、「お友達」の数は増えど、中身の薄い関係しか築けない。友達を欲しがる人は、自信がないのかもしれない。自信があれば、自分が興味を持てる人と、その相手が自分に興味を持ってくれる度合いが同じになる。そうなれば、自ら「欲しい」と思わなくても、知らないうちにその人と友達になっているものだ。恋愛と同じで、一方的に「友達」と思っていても、向こうも思ってくれなきゃ関係は成り立たない。両思いでこそ、友達。

「友達」と呼べる人間、人生で数人でもいいと思う。「数人の本物」がいれば、「数百人の偽物」なんかを持つよりずっと幸せだ。


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恋人と友達(2)

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 14.2017 人いろいろ/人間
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私の場合、ほとんど経験のないことなのだが。恋人と別れてからも職場などで顔を合わせなくてはいけない関係というのがある。
共有の友達が多くて、破局後も皆で会う時にはそこにいたり、とか。

ほとんどないが、ないことはない。そうした場合はどうするか。極力避けるか、あるいは過去のことなど忘れたかのようにただの友達の顔をして笑顔で話すしかない。そんなことをしているうちに、本当になんとも感じなくなり、本当に何もなかったかのようになっていく。いつまでも覚えているのは、男の方だ。

相手が恋人だった時と、そうでなくなった時の差は数あれど、気にかけることがだんだん少なくなっていくので、まず心配しなくなる。
これが一番大きいかもしれない。
恋人というのは何かと心配なのだ。体の調子を含め、仕事が忙しいから大丈夫かな、とか。無理をしそうなものなら、私は本気で怒ったりする。本気で怒る行為。。。。これは相手のことが好きだからできること。恋人は自分の生活の一部なのだから。
別れると、これがなくなる。相手が何をしようが気にしなくなった時に、ああもう気にかけていないんだな、と気づく。無理をしようが体を壊そうが、それはその人の人生。
ちょっとした行き違いでも口喧嘩する。どうしてそうなのかなあ、とか。それは相手に期待があるからだ。おかしいところは口に出して言っちゃう。それは相手のことを思うあまり。
ただの友達だと、それはない。そこまでコミットしないし。おかしいところがあっても、私には何ら影響のあることではないし。おかしいところがあっても、そこを無視して付き合えるのが友達でもある。

恋人には、たやすく「頑張ってね」とか言わない。
でも、関係ない人には「頑張ってください」って気軽に言う。
「頑張って」って、本当に無責任な言葉だと思うから。でも、世間一般的には悪い言葉とはされていないから。「お元気で」みたいなもん。
相手に「頑張ってね」と言える時、もうそれは距離が大分あることを示している。

叱り叱られる間柄。これが一番近い関係と言えるのかも。
「適度な距離感」と言うのは人間関係で失礼にならない距離感のことで、これは決して親しさを表しはしない。
人は歳を重ねるほどに、叱られる回数が少なくなっていく。いつまでも叱られるのは嫌だけれど、少なくとも人生の半分くらいまでは誰かしらに叱られてもいいのではないか、と思う。
叱ってくれる友達がいる人はとても幸せなことだ。それだけその友達は、近い存在であると言うこと。
恋人に叱ってもらえるのならば、それも幸せなことだ。それだけ想われているってこと。
叱ることは愛情表現なのだから。

誰かのことが心配になる時、それは恋をしている証拠でもある。
そして好きだった人のことを心配しなくなった時、それは冷めた証拠でもある。

ずーっと自分のことを心配してくれる相手というのは、親兄弟とか配偶者だけなのだろう。
恋人というのは、それに比べるとやはり儚い関係性なのかもしれない。恋人から配偶者に変わる時、それは何かが変わる。責任感、色々。結婚で失うものも多々あるが、確実に育むこともできる。何を選ぶかは人それぞれ。それぞれに、良し悪しあり。

話は少しずれるが、子供を作る、すなわち男にも女にも親になるという選択がある。一度親になったら、放棄できない重い選択。
親になるということは、親にならない選択をすることよりも得るものが大きいということはない。
親になった人が得たものは親にならなかった人にはないが、親になった人が得られなかったものを親にならなかった人は持っている。
それは、人の親でない大人と、人の親である大人が話すとよくわかる。お互いにあるもの、ないもの。
親になるにもならないにも代償がつきもの。それをわかった上で自分の選択を生きることが人生。
親になった人が子供のいない人を羨むことも馬鹿馬鹿しいし、子供のいない人が親になった人の方が何かを得ていると感じるのも馬鹿馬鹿しい。
親の子供に対する責任感はそれはそれは重い。だが、子のない人がその責任感とエネルギーを他のことに向けているとしたら、それは非常にでかい。

恋人、友達、配偶者、親子。。。。 それぞれの人間関係。
全てが大事で全てが違う。


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恋人と友達(1)

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 14.2017 人いろいろ/人間
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友達と恋人というのは関係性が全く違うので、どちらが上でも下でもない。
「友達から恋人になった」というのは、決して友達の関係から「昇格」して恋人同士になるわけではない。どうも、「友達よりも一歩上」の関係へ進んだと、人は勘違いしてしまうものなのだが。ただ、「全く別の人間関係」に移行しただけのこと。

実際、友達には話せないが恋人には話せることがあるように、恋人には絶対に話せないが、友達になら話せることがある。恋人の方が友達より「より近い」「より親しい」と思ってしまうのは、肉体関係を結ぶからなのだろう。ただそれだけで、恋人同士の方が「より親しい」ってことではない。

人間同士なので、関係には終わりがある。友達にも恋人にも。
よりハッキリと「別れ」があるのは恋人関係の方だ。なぜなら、恋人関係には友達関係よりも依存や期待するものがあり、それゆえに嫉妬や忍耐や限界などというものが生まれてきて厄介なことになる。特別な愛情があったからこそ「冷めてしまう」のである。盲目になるからこそ、見えてしまった時に幻滅し、嫌悪感さえ抱く。
友達関係ではそれは少ないが、男同士の友情などは女のそれよりももっと密な場合が多いので、期待も甘えも依存ももっと激しい。だからこそ「裏切られた」と思うことも多い。だから絶交もあり得る。
友達と絶交を経験したことのある人は、それは濃い友情関係を持っていた、ということ。殴り合えたり絶交したりできる友達は、別れがあろうが人生では貴重な存在だろう。
女には男ほどの友情はないので、期待も依存もしないし、相手を嫌いになる程近づきもしない。女友達に殴ってやりたいほど腹をたてることもない。

「絶交」を除いて、恋人関係には終止符があるが、友達関係にはハッキリした終止符がない。
かつてすごく仲がよかったのに、もう連絡も取れずにいる人のことは「昔いた友達」となる。「別れたんだけどね」とはならない。
かつて一緒に過ごした友達で、長年会ってはいないけれど、なんだかでやりとりしている友達は、まだ「友達」である。でも友達は、いつフェードアウトするかわからない。お互いに「どうしてるかな?」と思わないと、友達関係は続かない。

友達と違うのは、ハッキリと期間があるのが恋人でもある。
「去年の秋まで付き合ってたんだけどね」と言えるのは恋人で、友達関係にそういう表現はない。
恋人関係が終わって、その後「友達になる」というのは普通ない。もう会いたくない、あるいは会わない方がいい、と思って理由があって別れるのだから、友達として関係を続けるというのは普通はない。
男に未練が残っていてどうしようもない時に、女というのは「じゃあお友達でいましょうね」「お友達ならいいわ」と優しい言葉をかけてしまうことが多々ある。相手を慰めたり諦めてもらいたい気持ちで言っているのだが、これは男には通じない。若い女に犯しやすい間違いである。女にとってその時の「お友達でいましょう」というのは、「もうあなたに男性的魅力は感じません」「男として見ておりません」「恋は冷めたんです」の同意語だから。
例外があるが、実際に別れた後に友達になれる場合。それは恋人同士としての関係がとても薄かった場合のみ、だ。恋に落ちたとしてもお互い遊びだったとか、それほど深い関係にもならず、あるいは期間が超短かった時とか。男と女のドロドロした関係性を築かなかった場合のみ、友達になれちゃったりする。とてもサッパリと。

恋人と別れてから、10年20年経って友達になれることは、ある。
それは、全く会っていなかった10年20年の間に、お互いに新しい環境や人間関係が築かれていて、「他人」になっているからだ。懐かしさくらいは残っていても、未練や束縛や独占欲も持たずに目の前の相手を見て、どんなに変わっていても変わっていなくても「素敵な人だな」「面白い人だな」と思えた時に、新たに友達になれる。
それは、新しい出会いとも言ってよい。10年20年で変わらない人間などいない。その相手は自分の知っている「元恋人」ではなく、自分の知らない間にたくさんの時間を過ごしてきた人間なのだ。素敵に人生経験を積んだ相手に対しては、元恋人だろうが初めて会った人だろうが、改めて「お知り合いになりたいな」と思える。

付き合っていた恋人と別れる時に、「別れた後も友達だったらいいじゃん」みたいなことを言われたことがある。彼の言いたいことは、「何かしらで繋がっていよう」みたいなことだと思う。
「はあ?」と思った。私にとっては「繋がっている」なんて全然意味のないこと。なんのために?安心感? 親子や友達関係と違って、必ずやいつか人為的な別れのある恋人関係。家族や友達は黙っていてもどこかしらにずっといてくれるものだが、恋人関係というのは始まった時から終わりに向かっている。3ケ月かもしれないし、3年かもしれない。短距離だろうが長距離だろうが、必ずゴールがある。その与えられた期間に、どれだけ燃焼できるかどうかが恋人と育む人間関係だと私は思う。
恋人というのは、別れたら簡単に赤の他人となる相手。その相手が「自分の特別」な時にどれだけ濃い時間を過ごせるか。どれだけ愛し愛されるか。どれだけ色々なものを共有して、その後のお互いの人生の血肉の一部になれるか。
ゴールの時にはそれは燃え尽きているので、「その後」なんて私には必要ない。

「友達」というのは、私にとってはレベルの高い人間関係。簡単に「友達」は作れない。
ましてや、恋人というのは盲目だの熱情だのというフィルターをくぐって成り立っていた関係でもある。盲目が覚めて目が開いた時、熱がなくなって冷静にその相手を見たとき、まだ十分に魅力的な相手であるか。深い会話ができたり、自分が影響されるくらいの能力や感情を持っている人なのか。それは疑問だったりする。
恋人同士でのイチャイチャした時間は、ごまかせる手段でもある。関係からイチャイチャを取り除いた時に、長時間飽きずに話せる相手なのか、話が面白すぎて、また会いたいと思える相手なのか。そうでないと、元恋人は「友達」にはなれないし繋がっている意味すら不明になる。

友達のままでいたならずーっと長く続いたであろう男女の人間関係も、恋人になってしまったがために短い期間で終わったりしてしまう。友達と恋人は天秤にかけられないほどの別物の関係なので、どちらがよいとは言えない。ただ、両方は手に入らない。
「ずーっと長い関係」を求めたかったのにそれが叶わぬのなら、それは恋人関係を求めた側の過ちだろう。

「繋がっている」ことに意味がないと思うのは、生きてきたその場その場の瞬間や記憶で作られた体や心の中に残るものの方がよほど貴重だと思うから。
そこで得たもの。身に染みたもの。感じたもの。五感を働かせて全身で感じた感情は、もうすでに私の体に染み付いているので、そこで完結なのだ。
「終わりのないものはない」と一番感じられるのは、あらゆる人間関係の中でも恋人関係なのだろう。

五感を働かせて全身で何かを吸収している時。それが恋している状態。そしてそれが、「終止符」に向かって走っている時の状態。
人間はそれを繰り返す。
でも愛しい行為だと思う。

それに比べると、友達というのは安心感がありますね。何かあったらそこにいてくれる。
恋人は、いつか終わる関係なので、いつかはいなくなる。安心感も期間限定。それでも友達関係では得られない甘美なものがある。
どちらを取るか。どちらも、は手に入らない、のです。


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