ロングバケーション

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 02.2017 映画&ドラマよもやま話
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今更、なのではあるが、キムタクの恋愛名作ドラマ(?)と言われている「ロングバケーション」(1996)を観たのである。21年も前のドラマだ。当時は恋愛ドラマなどに興味もなく、ビデオ屋に行けばロンバケの写真が目にも入ったけれど借りる気も起こらなかった。
なぜだろう?
私だけではないと思うが、自分の恋愛で忙しい人間は、自分の恋愛ドラマの中で常に生きているから、他人の恋愛、ましてやドラマや映画の中の作り物の恋愛になんぞ興味を持てないのだ。だって、現実の恋愛は、ドラマや映画よりもずっと面白く、もっとハラハラドキドキで、ドラマティックなのを知っているから。そういう人間にとっては、ドラマはいつも、本物を下回る。

ずっと前に年下の男性と付き合っていた時、彼に「なんか僕たちちょっと、「ロングバケーション」みたいだね」と言われたことがある。
ああ、あのドラマの?観たことないから知らないわ。。。
彼がそれを観たのは、そもそも中学生の頃だったらしいのだが、きっと中学生にとっては恋愛ドラマはまだまだ未来のことで、かっこいいお兄さんお姉さんがハラハラさせる恋愛は面白かったに違いない。
私たちのどこが「ロングバケーションみたい」なのか、私にはよくわからなかったが、年上の女性と年下の男性の恋愛ドラマだから、きっと年齢のことを言っているのだろう、とぐらいに思っていた。

ドラマを観はじめたら、まず、21年前の東京がそこに存在していて、それなりにとても古くて、なんだか懐かしい気持ちになって楽しんでしまった(笑)。
キムタク演じる瀬名が住むマンションの風景。新大橋は浜町公園から伸びる橋で、隅田川の向こうに瀬名のマンションがある。浜町公園は私が赤ん坊の頃からお散歩に行っていた場所だし、なんだかそういう「東京」を見れるだけで今は幸せな気分になる。六本木や渋谷がロケ地でなく、新大橋ときましたか。いいですね。このドラマの後、隅田川の向こう側は急激に風景が変わったので、90年代の貴重な映像。

このドラマ、女性が年上で、男性が6、7歳年下で、その年の差を超えた恋愛ができるかどうかで二人とも腹がなかなか決まらないのだけれど、たった6〜7歳の差でガタガタ言ってんじゃないよ、と私は思う。
そうなのだ。こういう恋愛ドラマを観ないタイプの女性って、この年齢差の軽く2倍くらいの恋愛は実生活で経験したりしているから、「やっぱりドラマは現実には敵わないよ」って思っちゃうのだ。私に限らず、きっと。
ただ、21年も経ってからこういうドラマを観ると、自分の過去の恋愛を色々と思い出させてくれたりもして、とても懐かしく優しい気持ちにもなれる。
生きること自体にまだまだもがいていたあの年齢の頃。きっと、「輝く」っていうのはもがいている時代をいうのではないか。若さゆえのもがきをしなくてよくなった時、人は確実にある輝きを失う。その「輝き」は次世代へバトンタッチしていくものなのだ。そうでなければ、この世の中美しくない。

山口智子扮する南という女性はカメラマンの卵。瀬名はピアニストの卵。
恋愛のシチュエーションが全然違ったから最後くらいまでその「偶然」に気づかなかったが、私はフォトグラファーで、ピアニストの年下の男性と付き合っていたことがあった。
だけど、ドラマの方が全然「壁」の数が少ないんだよね。現実の我々の恋愛は、年齢の差ももっと大きかったし(でも気にならなかった)、もっといろんな「壁」がありましたよ。壁があるから楽しかったし。
そこにおいても、「やっぱり現実の方がドラマよりもドラマティックだよ。。。。」と思ってしまった。
ところで、そのピアニストは「僕たちってロングバケーションみたいだね」と言った人とは違う。「ロンバケ」を教えてくれた彼との恋愛は、年齢の差くらいしか「ロンバケ」との共通点はなかったなあ。

私のように、当時自分の恋愛に忙しくて恋愛ドラマなど観るヒマなかった人たちは、時間ができた時に、自分の若かりし頃に流行っていた恋愛ドラマを騙されたと思って観るといいのかもしれない。
きっと、「あー、自分はドラマよりももっと楽しくてドラマティックな恋愛をしてたんだなあ」と懐かしくも誇らしくも思えるだろうし、若さゆえに輝いていた頃を愛おしくも思えて、今だったらその恋愛ドラマも違った目で見れるはず。年齢に関係なくずーっと恋愛をしている人たちだって、若い輝きを持っているのは人生の中でも一瞬。それは誰しもが、必ず年齢とともに失っていく。その失ってしまった、もがいているがゆえに輝いているキラキラを、主人公のキムタクの鋭くキラキラしている瞳を見て、ハッと思い出すと思う。年齢に関係なく素敵な恋愛はできるけれど、あの当時のキムタクの瞳の輝きは、自分の過去の恋愛のキラキラを思い出させてくれて、キュンとする。きっとそういう気持ちは、21年前に観てたならば得られなかった気持ち。余裕がなくて、まっすぐで、キラキラ光っていて、怖いくらいに輝いている瞳。崖っぷちに立たされている、戦いに挑む者の目。何も持っていなくて、自信がなくて、自信を持つために足掻く者の若い視線。苦しい時にしか持てない若さゆえの美を、余裕のない鋭い眼差しを、きっと思い出すと思う。

「ロンバケ放映の月曜の夜はOLが街からいなくなる」と言われていたそうだ。。。。 だが、いつの時代も、ドラマよりも現実の恋愛の方がずっと面白いしためになるよ、ってことは若い世代に声を大にして言いたい。ドラマの中のキムタクを観るよりも、自分の好きな人と会っている方がずっと楽しい、って思っていた女性たち、ロンバケの存在すらも知らなかった女性たち、ドラマにではなく、現実の目の前の恋で笑ったり泣いていたりで大忙しだった女性たち。
騙されたと思って「ロンバケ」観たら、きっとキムタクの細い肢体やツルツルお肌やはにかんだ笑顔に、昔の自分の恋愛相手を思い出して、微笑むこと多数あるんじゃないかな。

ピアニストになる瀬名が、「誰かのためにピアノを弾いたことがない」と言っていた。彼が「誰かのために弾いた」時の音は、壁を取っ払うことができた時だった。
私も、ピアニストの彼氏から彼のピアノの楽曲CDをプレゼントされたことがある。私の好きなカバー曲がたくさん詰まっていたのだが、その中に一つだけ知らない曲があって、その曲が一番美しく、一番心に響いた。それは彼が私のために作ってくれた曲だった。
「ロンバケ」の中で「誕生日」が出てくるシーンがある。
私が「ロンバケ」の最終回を観た日は、偶然にもそのピアニストの彼の誕生日だったことを思い出した。かつて彼の誕生日に一緒に過ごした楽しい時間を思い出したら、ドラマの中の瀬名くんのピアノ演奏が、彼のピアノの音に変わって聞こえた。

しかし、21年前ってあんなに「古かった」んだな。
携帯を持っていない時代の恋愛って、なんだかもう、すれ違って当然だよ!とさえ思ってしまう(大笑)。



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「ムーンライト」

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 28.2017 映画&ドラマよもやま話
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今年のオスカーにノミネートされていた作品の中で、飛び抜けて気に入った作品が「ムーンライト」だった。低予算の小作品だしテーマがテーマなので、正直これがノミネートされたことに驚きだった。

いい作品かどうかは人によって違うが、自分が好きになる映画は小説と似ている。小説は最初の1ページで引き込まれるかどうかが決まるように、映画は最初の1分で好みの映画かどうかがわかる。
「ムーンライト」は、まさに始まりの何気ないシーンから、「あ、これは面白いぞ」と妙に私をワクワクさせた作品だった。どういう話かどうかも全く耳に挟まないで観始めたのに、「出会い」というものはそういうものだ。

舞台はマイアミ。黒人の一少年シャイロンの成長物語とも言える。シングルマザーの家庭で母一人子一人。母はドラッグ中毒。彼は体が小さいこともあり性格が大人しいこともあり、学校ではいじめられっ子だ。そんな中で唯一彼に話しかけてくれる友達ケヴィンができる。
少年、ティーンエイジャーと成長するにつれて、シャイロンはケヴィンに対して友達以上の気持ちを抱き始め、自分の性のアイデンティティについて模索し始める。

すごく美しいラブストーリーだと思った。
ラブストーリーというのは男と女のものだけではないのは当たり前だが、男同士の切ない想いも男女となんら差もないということに改めて気付かされる。
低予算とは言え、映像がいい。第3章でシャーロンがケヴィンが再開するダイナーのシーンはドアのベルが鳴る場面から最後のドアベルが鳴る場面まで通しで大好きだ。
シャイロンがケヴィンのアパートに行き、駐車場から見える海を見る。夜の波が見える。そんな小さなシーンがいちいち秀逸で、制作側のおとなしくも細やかなセンスに恐れ入る。

大掛かりで大予算をかけた他のノミネート作品と比較してしまうが、いい作品って本当にお金じゃないんだよ、心なんだよ、と思ってしまう。興行成績も他作品と比べると結果も出していないこの小作品が作品賞を取るなんて、痛快である。アカデミーも変わったなあ。
変わったなあ、と思うのはもう一つ。今までゲイ映画は数あれど、ゲイ映画は絶対に最優秀作品賞は取れない、という暗黙のお決まりがあった。黒人俳優や監督が賞を取れるようになってからも日が浅い。やっと人種の壁を超え始めた時代だから、同性愛ものはまだその先。私の中での作品賞は絶対に「ムーンライト」だったが、マイノリティのゲイ映画とあって2つのハードルがあり、しょうがないが「ラ・ラ・ランド」に持っていかれるのがオチだろうと思っていた。
だが、堂々と、興行成績も無視してこの「ムーンライト」が評価された。これは画期的なこと。
2005年に素晴らしい映画、「ブロークバックマウンテン」があった。だけどゲイの西部劇ということで、作品賞からは外れて当然の空気があった。
あれから12年。あー、世の中変わったなあ。
ただ、いい作品が評価されて欲しいのだが、ちゃんといい作品が評価された今年のオスカー。心から嬉しい。

「ムーンライト」のダイナーのシーンで、ケヴィンがシャイロンにキューバ料理を作ってあげる。そこまでの話のくだりがいいので、そのシーンにはじんとくる。
そのシーンに感激した私は、オスカーの夜はケヴィンが作ったキューバ料理を真似して作って臨んだ(笑)
ケヴィンが作ったものより時間もかけて洗練されておりまする、キューバ風チキンの煮込みとブラックビーンズ
ケヴィンの出すチキンはただ焼いてましたが(ダイナー料理だからね)、私は煮込みました。
キューバ移民の多いマイアミ。マイアミの潮の匂いがするようなキューバ料理です。


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「沈黙 -サイレンス」

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 07.2017 映画&ドラマよもやま話
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マーティン・スコセッシが遠藤周作の「沈黙」を映画化すると言ってから一体何十年の月日が。。。。  15年ほど前に「ようやく」と言った噂が流れ、楽しみに楽しみにしていたのに、彼はなかなか撮り始めない。あれやこれやいろんな大作を手がけるが、「沈黙」の話はもう消えて流れてしまったのかと思っていた。
忘れていた頃に撮影開始していたのね。。。いきなり公開されてビックリしました(笑)
あまりに昔期待していたもので、もう期待もしないで観たのだけれど、ズドンときた。素晴らしい小説を「ほぼ」忠実に、しかもダイナミックな作品に仕上げられていた。

日本が舞台といえども、キリスト教の歴史ものなので、一般の日本人にはきっとわかりにくい題材だとは思う。
私の先祖は長崎に所縁もないしそこの隠れキリシタンでもないが、代々続くカトリック一族の家庭で生まれ幼児洗礼を受け、一般の日本人とはちょっと違う環境の中で育った。
しかも作者の遠藤周作氏一家は、我が家が数十年席を置いていた東京郊外のカトリック教会での同じ信者同士でもあった。そんなわけでこの作品にはより親しみもある。非常に同感する。彼の一連のカトリック作品には感動する。
それ自体、敬虔なカトリック信者や教会関係者から見れば「異端」なのかもしれぬ。私は「中から」見つめてきた経験上、「彼ら」の偽善な部分も綺麗ごとも冷ややかな目で見てきた部分もある。全部は否定しない。否定できるのなら、とっくに私はこの宗教を捨てていたと思うから。「彼ら」とは聖職者、あるいは聖職者を目指している者たちであり、そう、もちろん全員が全員私の「冷ややかな目」の対象になったわけではないことは断っておく。

この作品は、棄教が一つのテーマだ。
その一方、いかなる非道な拷問にも屈せず、殉教していく聖職者や信徒たちの力強い不屈の精神も描かれている。
そしてイエスの沈黙。

踏み絵をして表向き棄教しておきながら心の中では信仰心を捨てきれず、ふらふらとさまよいながら卑屈に生きるキチジローが大事な役目を果たしている。
狡そうな目をし、忍耐などから程遠い、弱虫のキチジロー。家族を、村人を、そして司祭までをも売り渡して生き続ける男。
キチジローは弱いので、命が欲しくて踏み絵をするが、裏切るたびに傷ついている。家族を焼かれ、村八分にされ、行くあてもない。だけど図々しくも生き延びる。ロドリゴ司祭を見れば「パードレ」と歩み寄り告解をこう。裏切るたびにどこかに消えるキチジローだが、ひょっこり司祭の前に現れるのも彼だ。司祭は彼を憎く思うが、彼を捨ててはいけないことと葛藤する。
キチジローを最初から、どこか侮蔑し信じきれない、そんなロドリゴが、司祭でありながら未な人間に描かれているところもこの小説の凄さだ。
遠藤周作も、マーティン・スコセッシも、自分に近いのはキチジローだと言っている。
イタリア系移民の家に生まれ、マフィアが牛耳る移民社会における暴力を目の当たりにしながら、一時はカトリックの司祭を目指していたスコセッシ。カトリックの洗礼を受けながら、最後まで日本人としてカトリック信者であることに違和感を抱いていた遠藤周作。

映画は、雲仙地獄での拷問シーンから始まる。潜伏司祭たちを拷問にかけるが、殺さない。棄教目的だからだ。
指導者を殺すと、信者たちの結束はさらに固くなるからだ。
この修道者たちは、極東の国に「正」を教えにやってきた。彼らの信じる「正」。
日本にキリスト教は必要ない、とする側には一理ある。そもそも、日本にはすでに仏教という素晴らしい宗教が根付いていて、その文化や伝統をヨーロッパ人が持ち込む宗教で絶やす権利などないのだ。ヨーロッパは、ヨーロッパの宗教は、世界でこの上なく正しいと、「無知で」「未開な」日本を助けようとするおこがましさ。お節介。
当時の日本の修道者たちには、それに気付いている人などいない。熱い使命感と「絶対」を持って日本にやってきていた。

島原の乱以降のキリスト教弾圧。信徒の虐殺。
「正」をもたらしたはずのキリスト教が、それを信じる人たちが犬死する原因を作っている。
司祭たちが粘れば粘るほど、大きくなる信徒たちの犠牲。でも棄教してしまえば、生まれてから今まで信じてきた信仰は一体なんだったのか。神を否定することなどできない。司祭の宗教者としての葛藤。
試練を繰り返しても、目の前で信者たちが虐殺されようとも、神は沈黙したままだ。答えはどこに?
結局、「日本で最後の司祭、ロドリゴ」も棄教してしまう。

遠藤周作の「沈黙」は発売当時、日本のカトリック社会の中で物議を醸した。
踏み絵のシーン、司祭の棄教などに問題があると、長崎では禁書に近い扱いも受けた。
しかしこれは事実に基づいた小説であり、こういう事実を認めたくないカトリックの体質というものの方が問題がある。
棄教者は教会にとっては腐った林檎。語りたくない存在。歴史から葬ってしまおう。。。。
「弱者」たちは黙殺され、忘れ去られた。だが、彼らは我々と同じ人間であり、司祭だからと言って神ではない。彼らの動機、心理、棄教に至った経緯など、そこに人間の真理が隠れているとも言えよう。自分が生涯信じていたものを捨てる時、一体どういう涙を流すのか。屈辱なのか解放なのか。それを想像せずに忘れ去ることだけに重きを置いてきたならば、それこそカトリック界の恥じゃないのか。
「沈黙」には、やむを得なく棄教をした者への、教団や社会や歴史家の彼らへの「沈黙」の意味も含まれている。忘れ去られた事実を紐解いて書くのは小説家の仕事に他ならない。

遠藤周作が亡くなるまでい抱いていた、日本人なのにカトリック信者であることに対する違和感。
私は違和感というよりも子供の頃は、自分はどこに位置すればよいのか問答していた。宗教心に薄いと言われる日本人の生活が、いかに宗教色の濃いものに彩られているか。。。お正月のお参り、お盆、法事。。。  そのどれとも縁もなく、それがどういうものなのかも知らずに育つ日本人の私。
父の本棚にあった「死海のほとり」。敬虔なカトリックの家庭で育ち、若い頃に信仰につまづいた経験のある父が、どういう思いでこの本を読んだのか。きっと同じように悩める日本人は、遠藤周作の一連の作品に救われ続けてきたのかもしれない。そして私も再度、沈黙の映画化で再度、その潔い切り口で救われる。
マーティン・スコセッシがこの作品を撮りたいと長年強く思っていたことに興味があった。
このとても日本的な、特異なキリスト教史。カトリックのスコセッシが個人的な興味を持つことは大いにわかる、が、ビジネスとして映画にするならば興業的なものが大切で、果たしてこの題材が多くのアメリカ人、世界中の日本人以外に観てもらえるのか、という点。
ところが映画の最後に、「For the Japanese Christians and their pastors」と出る。はっきりと、日本のキリスト教徒とその司祭(牧師)たちへ捧げられている。普遍的なテーマとはいえ、スコセッシが感動し捧げている矛先は、ただ一つなのだ。

若い時から活躍している映画監督は、死ぬまでに一本、晩年に、自分の出自や経験が軸になる名作を撮ることが多い。
ルイ・マル監督の「さよなら子供たち」や、ロマン・ポランスキーの「戦場のピアニスト」など、「これは絶対に撮らないといけない」と暖めて数十年。それはどれも、とても個人的な経験の一コマである。だが人生を大きく左右する、忘れようとしても忘れられない、自分の人格の軸になる出来事だったりする。スコセッシにとっての「沈黙」は、その一本に違いない。自分にとって大切な題材だけに簡単に撮れない。大事に撮りたい。失敗したくない。もうちょっと人間(自分)が熟してから撮ろう、と思っていると晩年になる。これ、20年前に作られていたら、同じスコセッシ監督でも全然違ったものになったと思う。50代と70代じゃ、物の見方が全然違うだろう。円熟した人間が撮った1本。間違いなく名作。
遠藤周作氏も喜んでいるはず。


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ゆとりですがなにか

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 05.2017 映画&ドラマよもやま話
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近年はドラマの配信サービスがとても便利になって、昔は完全に諦めていた日本の作品をさほどの時間差なしで観ることが夢でなくなった。いやー、便利な世の中だ。
ところで、実は日本で生活していた学生の時も、働いていた頃も、私はテレビドラマシリーズというものを全くと言ってよいほど観たことがなかったのだ。なぜならば、毎週決まった時間に1時間、そのドラマのために家にいることは不可能な生活をずっとしていたし、録画するにしても、その録画した番組を観るために時間を空けなくてはいけないことは同じことなわけで、そんなことは無理だったのだ。ドラマというのは1話空けてしまうと面白くなくなるし、そういうわけで10話とか11話を通して観ることなんて私の生活の中ではとても難しいことなのであった。他のことに夢中になっていたこともあるが、テレビドラマに大して興味を持ったこともなかった。
映画の2時間なら観れる。だけど、テレビドラマの1時間x10話は無理なんよー。。。。ってこと。

ここまで前置きが長くなったのは、そんな私が1話から10話まで1日半くらいで年明けの休日にはまって観たドラマが、宮藤官九郎脚本の「ゆとりですがなにか」。
ちょうど去年帰国した春にこのドラマが話題になっていて「面白いんだよ」と耳にしていた。1度だけ実家のテレビでちらっと観たが座る時間もなく、出演者の顔ぶれも全くわからなかった。岡田将生も、松坂桃李も、安藤サクラも、全然名前も聞いたことないし顔も知らない人だった。唯一柳楽優弥だけは子役の時の映画を観ていたので、「へえ、こんなに大きくふてぶてしく(笑)なったんだ」なんて思っていた。

観始めたら、あまりに面白くて次から次に。次が待ち遠しい。いや、待てないから一気に観ちゃおう。。。。こんなに楽しいなんて。年明け早々、お腹抱えて笑いすぎた。
テーマも脚本も配役も素晴らしく、あー日本の芸能界は今才能溢れるホットな時代なんだなあ、と感心した。私が知らない間に、恐ろしいほど若くて上手い20代の俳優が沢山いる。才能あっても油断していたら自分の立つ場所はすぐに無くなってしまう、真剣勝負でお互いに戦っている様子が、このドラマのキャストを観ただけでも想像できた。

ゆとり世代が社会に出た時に、日本にいる友人らが自分たちの職場に入ってきた彼らのことをなにか言っていた記憶はある。だけど個人的に、日本のゆとり世代とは私は関わっていないからわからない。
いや、関わっていたことはある。87年生まれの「ゆとり第一世代」もそのあとの「どっぷりゆとり世代」たちにも。当時彼らが小中学生だった頃、私は塾で英語を教えていた。塾というのは学校教育のフォローだが、来年度から週休二日制になるという時に、うすーくなった学校の教科書を見せられ唖然とした記憶がある。信じられないほどに薄っぺらい。文字も大きい。学習塾なら1ケ月で終える内容を、学校では1年かけてやっていくというのか。今まで入っていた文法も削られる。2年生でやっていたことは3年生で。それは他の教科でも同じで、同じ塾の数学講師も頭を抱えていた。
ただ「ゆとり教育」とは言っても、都内では逆に今後土曜日塾産業は忙しくなるよ、という時代でもあった。週末塾に通わせる経済的余裕のある家庭と、そうでない家庭の子供たちの学力や意識の差が、同じ都内でも今後大きく膨らんでいくのだろうな、と。

ドラマの中の、私の知らない「社会に出たゆとり世代たち」が新鮮だった。ドラマなんだし、「ゆとり」でひとくくりにできないのはわかってはいるが、どの時代の若者もいつも「ひとくくり」にされてきたものだ。
個人個人が違っても、他の世代から見ると共通点があるらしく、またきっとあるものなのだ。ひとくくりにされる側はたまったものじゃないが、世代世代を比べて見れる年になってくると、それは明らかなのだ。
人間は社会的な生き物だから、生まれ持った才能や性格、育った家庭環境の違いは大差あっても、時代に少なからず影響される。いや、かなり影響される。同じ時代を共有するものは、どこか共通点がある。それはおそらく、別の世代にしかはっきり見えものかもしれない。

ドラマに出てくる、ゆとり世代の親世代にあたる「レンタルおじさん」が面白い。バブル絶頂期に就職組の1961年生まれ。自ら「俺ら、火照り(ほてり)世代だからさ」と言う(爆)。
学生の頃からお金を湯水のように使い、将来悲観することなど知らずに青春時代を過ごした世代。その後バブル弾けたり、不動産弾けたりして金銭的に打撃食らった人も多いけれど、若い時にチャラチャラしてた世代って、いつまでもチャラくさい(笑)。これは本当で、彼らは年をとったからって地味になるわけでもないし、年齢らしくおさまったりしないんだよね。「バブルをいつまでも引きずっている」って下の世代からは言われるけれど、これは時代に育まれてしまった「性質」ですから(笑)。
ドラマって、真実に近くないと面白くないからね。火照り時代のこのおじさん、本当にいるから面白いんだよ。

1987年生まれのゆとり第一世代がもう今年30歳なるという。
そして「どっぷりゆとり世代」がどんどん社会に進出してくる。
彼らが40、50になった頃、どんな大人になるのだろう。そしてその頃、どんな若者が育ってきているんだろう?

簡単に言えば、「ゆとりだけど頑張っているよ」ってドラマだけれど、あえて簡単に言えば、若者はどの時代も「それなりに」頑張ってはいるんだよね。
戦後世代も物がない時代にがむしゃらに頑張ったし、全共闘世代だって怒りを持って頑張った。
バブル世代はゆとり教育の正反対の詰め込み教育の中で子供の頃から戦ってきた世代だ。成績、偏差値、受験戦争。お金があっても職があっても地獄はたくさんある。
そして「ゆとり」だって大変なんだよね。何かにつけて「これだからゆとり世代は」って言われてしまう彼ら。
どの時代の若者も、「今時の若者は全く。。。。」って必ず言われて育ったものだ。それは時代ではなく、経験値の少なさゆえの未熟さから。上の世代は、扱いづらい若い生き物が怖いから、「これだから。。。」って片付ける。
若者って怖いんですよ、いつの時代も。それは時代の違いとは関係なく、年齢特有の焦りを持っているから。20代から30代に移り変わる頃特有の焦り。このままでいいのか?という焦り。将来が見えない焦り。自分は頑張っていないんじゃないか?という焦り。
焦っている生き物って、はたから見るとどうしようもしてあげられないから怖い。もがく生き物は、爆弾抱えているようで怖い。
もがきも焦りも叫びも落ち着いた頃、「ああ大人になったんだな」って思えるんだけど。

時代の差が産む世代の違いと、いつの時代にも共通する若者のもがき。
それがしっかりと描けていたから面白かったし、どの世代が見ても楽しめるドラマだったのだろう。
これは「ゆとり世代」を描いた名作ドラマとして残るだろう。20年後、30年後に観て、「へえ、あの時代の若者ってこんなだったんだー」って思うのだろう。
その頃、一体どんな20代がこの世の中にいるのだろう?って想像もつかない。

若いうちは「こうするべき」「こうあるべき」という「正しいこと」なんて一つもない。そんなこと誰ももう言えない。戦後のたった半世紀だけでも、同じ日本人であるはずの価値観が大きく揺らいで動いて変わってきたことを誰もが知っているから。
そして「誰にも何も言ってもらえない」「価値観を押し付けてくれる大人が周りにいない」ってことは、それはそれなりに厳しいこと。壁もないところでもがくより、何かしら当たり散らす壁があった方が生きやすい。だったら壁は自分で見つけよう。思いっきり当たったら、受け止めてくれるはず、いつの世でも自分よりも大人の世代たちは、きっと。


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「そこのみて光り輝く」

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 23.2017 映画&ドラマよもやま話
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久々に心をえぐられる映画だった。
近年の日本の芸能界に疎い私であるが、去年の秋頃に「菅田将暉という若手俳優がいい」、というのを耳にし、こちらで手に入る彼の出演作はなんとかして観てきた。
「セトウツミ」で感心し、「ディストラクションベイビーズ」で唸らされ、「共喰い」で圧倒され、「海月姫」ではあまりの「女っぷり」に驚かされた。菅田将暉の天才的な魅力を書くつもりでいたら、「そこのみて光り輝く」に出会った。
菅田くんの凄さはここでも炸裂しているけれど、綾野剛も池脇千鶴もいいし、映画全体がよくできている。
なんと佐藤泰志原作の映画ではないか。佐藤泰志は41歳で自殺した、亡くなってからもしばらく無名だった作家だが、『海炭市叙景』を読んでいいなあ、と思い、その映画もこれまたよかった。「ここのみて光り輝く」も彼の「函館三部作」と言われるもののうちの一つ。
函館出身の作家の作品だけあって、函館の情景がとてもリアル。海辺の町の、貧困層の暮らし。社会の底辺でなんとか生きる、行き場のない若者たち。そこではそれが当たり前の光景だからこその、静かな描写がかえって胸にグッとくる。

この作品は小説をまだ読んでいない。だから映像の方が先に焼き付いてしまったが、こんなにワンシーンワンシーンが見終わってから心に残る作品も珍しい。どれも綺麗な場面ではないし、だからと言って暴力シーンと血生臭で映像に訴える方法を狙っている場面なんて一つもない。
初っ端のパチンコ店内で達夫(綾野剛)と拓児(菅田将暉)が出会うシーン。ライター一つのやり取りで、こんなにも「拓児」を表現できる菅田将暉。
二人が拓児の家まで移動するシーン。自転車に乗った拓児だけがほとんど喋り捲る。対照的な受け身の達夫。
海辺のバラックの拓児の家に招かれ、拓児のお姉さん(家脇千鶴)に作らせたチャーハンを二人で食べるまでのシーン。
後ろ姿でご飯を作る千夏(池脇千鶴)がフライパンを操る時に、左腕の腕の肉が揺れるのだが、その肉感的な存在感。彼女は映画を通して、肉体で貧しい哀しさを表現している。そして寂れた町の貧困社会において、その肉体がいかに秀でたものであるかも物語っていてそれがまた悲しい。

肉体でいうならば、男性陣の綾野剛と菅田将暉の肉体も美しい。
映画の始まりは、畳の上でうつ伏せで寝ている男性の足元のシーンから始まる。足裏からカメラが上に向かいふくらはぎ、太もも、お尻、背中へと這うように動く。綾野剛演じる達夫は元の職場で後輩を事故で死なせる。その責任を感じて自暴自棄になっている無職の青年だ。ビールの空き缶などが転がる畳の上で、うっすらと汗をかいているその肉体がとても艶かしくリアルである。肉体というのは恐ろしいほどリアルに、その人の生活や人生を映し出す。貧乏人は安っぽくて汗臭い服装で貧乏をよそえるし、金持ちはブランド物で金持ちをよそえる。それが服の役割だが、服をはいだ生身の肉体はそれを隠せない。そう、どんなに社会から落ちぶれていようが、若者は美しい肉体を持つ。自分が意識せずとも、勝手に綺麗になっていく若い肉体。どんなに不摂生しようが、ある年齢までは、肌も筋肉も綺麗なのが若さの象徴だ。そのリアルさが、裸の綾野剛の肉体に現れている。最初のワンシーンで、これは落ちぶれた中年の映画ではなく(笑)、訳ありで無職の若き青年の話なのだ、という説明がつくのだ。肉体一つで10のセリフの役目を果たす。それにしても、元陸上部だという綾野剛の肉体の贅肉のなさはとても美しい。
そして本当に社会の底辺での暮らししか知らない拓児(菅田将暉)の、さらに若き肉体も映画で存分に動き回る。パチンコ店で、達夫にライターを借りる時に伸ばす、贅肉のない体のしなやかさ。狭苦しい自宅の食卓で、長い足を邪魔くさそうに折り曲げて食べる仕草。タンクトップから出た、若さゆえのまだ細い肩や長い腕。彼の肉体が物語るように、彼は持て余しているのだ、今おかれている状況で自分を。拓児の、行き場所のない歯がゆさを、菅田将暉の美しい肉体は素晴らしく表現していて、美しいが故に悲しくなるのだ。

始終暗い表情の達夫(綾野剛)を勝手に兄のように慕い、どこまでも付いてくる迷い犬のような拓児(菅田将暉)。達夫が以前働いていた山に一緒に戻って仕事をしたいと言い出す。
この人懐こさは下手すれば嘘くさくなるのだが、仮出所中の身であり友達のいない拓児の状況や、働き口があるのなら働きたくてしょうがない(怠けて仕事をしているわけではない)、姉や両親(父親な病気)の拓児の切羽詰まった環境からして、嘘くさいどころかどれも納得がいき、その人懐こささえ痛々しくて愛おしくなる。それが実に上手いのだ、菅田将暉くん。

心を通い始めた達夫と自分の姉、千夏の喧嘩を拓児が取りもち、食堂で3人が集まるシーン。
安食堂の小さなテーブルで、拓児が言う、「達夫、かんぱーい」「姉ちゃんかんぱーい」。泣けます。名場面の一つ。
チャラいのに感動させる演技をさせたら、今菅田くんの右に出るものはいないであろう。

拓児の天使ぶりを見ていると、映画の途中から「拓児は死んじゃうんだろうなあ」ってわかり始める。
佐藤泰志の作品ですから、ハッピーエンドなんてない、と思ってしまう(苦笑)。やだなあ、菅田ちゃんが死ぬの、見たくないなあ。。。。
って思ってしまう。でも避けられないだろうなあ、って。
結末からいえば、拓児は死なない。だが、姉のしつこい不倫の相手をふとしたことから刺してしまい、達夫と一緒に山へ仕事に行くという掴みかけていた幸せを手に入れずにシャバを再び去る運命になる。
殺人ではなく傷害事件なんだからまだいいや、と思えるし、拓児も生きてるんだからいいじゃないか、と思いたいが、貧しさから抜け出したかった青年が逆戻りしてしまうという、やはりそこは叶わない夢なのか、と思われる現実の厳しさがやりきれない。
傷害事件を犯した後に、達夫のアパートの前に座り込んでいた拓児。達夫に殴られる拓児。そして二人でタバコを吸い、「これがクライマックスだよ」と観客が期待するシーン。どういうセリフが出てくるのか。誰もが期待する。
少し間があるので、「こういうセリフが出てくるんだろうな」と私も予想する。予想してたし、だいたいその通りのセリフだったのだが、実際に菅田将暉の口からそれが出てきたときは、ブワッと涙が出てきた。
一体なんなんじゃ?この役者は。。。? 恐ろしいわ、菅田将暉。

「そこのみて光り輝く」の映画の感想というよりも、菅田将暉くん大好き論みたいな記事になりましたが、最初は菅田将暉の魅力についてとっぷり語ろうと思ってた矢先だったのでご勘弁を(笑)。
いやー、いい映画でしたよ。キャスティングはバッチリでございます。
綾野剛は、こういう受け身受け身の役柄の方が魅力をより発揮できる。ただ、こんな役ばかりだとあまりに狭まってつまらなくなるのも確かだが。
菅田将暉がやった拓児役を、池松壮亮がやったらどうなるか、ってちょっと考えてみた。タイプは違うけれど、彼がやっても全然違う拓児が出来上がっただろうな。彼なりに、拓児像を作り上げてしまうだろうし。
だがこれは、菅田将暉で本当によかった。役者は、経験と年齢を重ねて深みを増し、どんどんよくなってもいく職業である。しかし、最初に書いたように、スクリーンにバーンと映し出される肉体(肉)というのは嘘をつけない。演技以前の問題でもあるが、肉体も演技の表現手段の武器なのだ。
菅田くんの、低い天井の自宅の中で狭苦しそうに立つ姿。冷蔵庫を開けてビールを取り出す姿。ママチャリを、長い足をもてあますようにこぐ姿。そして、「達夫ー。達夫ー。」って呼ぶあの声。
ああやっぱり、拓児は菅田くんしかいないな。

最後にもう一つ菅田くんを褒めると、彼の演技の素晴らしさの一つは「反射神経」。相手役の役者の演技やセリフや動作に対しての反射。これが抜群にうまい。
覚えたセリフで練習して何テイク取ってるにも関わらず、どれもこれもがまるで初めて出っくわすシーンのように彼は演技し続ける。何度も繰り返すと嘘くさくなるし自分でも飽きてくるだろうけれど、きっと彼は引き出しをたくさん持っている人なんだろうなあ。この「反射神経」の素晴らしさは、彼のどの作品を見てもお目にかかれる。
時にプッと吹き出してしまうし、時にウルウルしてしまう。相手役も上手くないと菅田くんの魅力は100%生かされないので、同レベルで張れる役者さんとの共演、今後も楽しみ。
池松壮亮にしても菅田将暉にしても、こんなに上手い20代の役者たちが出てくると、いい意味で恐ろしいね。

ブレイクしてから随分と時間が経っているのでしょうが、今頃気づいた菅田将暉という俳優。ああ、知ってよかった。
安売りせずに、溢れる感性を大切にしながら成長していってほしいものです(やっぱ最後は菅田くんへの想いになりました笑)


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