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ヴロツワフ(2)

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 12.2016 ポーランド
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今回、ポーランド日記最終です。

旧市街のすぐ外を出たところ。トラムが交差する大通り。
ここに私は宿泊したのですが、旧市街まですぐだし、駅からもトラムで数駅と、とても滞在しやすい街でした。


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ヴロツワフの観光ガイドでは、旧市街の一部の歴史的建築しか紹介されないと思うので、他の光景をご紹介。


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ポーランド中にあるこの手の社会主義団地。
古い建築と連立しているのが、ポーランドの建築群の特徴。
ここがポーランドらしい、ユニークな点。


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ワルシャワでは、このような社会主義団地に泊まる経験もできた。
薄暗い廊下(明らかに電気が少ない)、あのなんとも言えない冷たいつるっとした装飾なしのコンクリートの表面の壁や床を感じることができて、今までポーランド映画で見てきた空気感がとても身近なものに。
これからもう一度、ポーランド映画を観直してみたい。明らかに見方が変わっているだろう。


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ポーランドという国は、今後も印象深く私の心に残るだろう。
戦争の大きな傷跡はこの国の大きな特徴で、特徴が突出している国というのはあらゆる意味で印象が強い。


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そしてこの国のポーランド人。
侵略を繰り返されて外国人嫌いになる国も多いのだけれど、私が感じたポーランド人は排他的どころがとても暖かく、旅行客に心から親切なのであった。
昔から言われている、寛容の精神というのが根付いているのだなあ。


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そして、私を驚かせたのは、美味しい料理が食べられる国ということ。
「ポーランドは料理がまずい」というのは、「ポーランドの郷土料理が美味しくない」ということ。確かに、ポーランド料理というのは、フランスやイタリア料理に比べて万人に受けない。バラエティもない。
だが近年の、目を見張る周囲の国からの影響。イタリアンレストランにフランス風ベーカリー、質の高いコーヒを出すカフェ。パリと同レベルのスイーツ類。
こんなに美味しいものがこの国で食べられるとは、全く想像していなかった。


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これはポーランド最後のスイーツ。
中はマスカルポーネチーズのクリーム。周りはメレンゲ。
最後の記念に、サイズで勝負(笑)


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ああ、またポーランドのカフェに行きたいなあ。


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アメリカにはない光景。
アメリカのこういう建物は低所得者用に建てられた公営住宅で、その末犯罪の巣窟となり、荒れ果てた。ドラッグディーラー、麻薬中毒者、ギャングが出入りする近づきたくない建物なのだ。

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だからこのような団地に、花が飾ってある光景がものすごく目新しくて、ついつい追いかけてしまう。
アメリカにはない、ポーランド的光景。

団地にもいろんなデザインがあって、古い建物との共存が面白い。
日本の団地が歴史ある建築とくっついてる、っていうのはありえないですからね。
街の形って色々。


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この壁の形、クラクフのゲットー壁を思い出してしまう。
よくあるデザインなのだろうけれど、イメージというのは怖い。
「ゲットー経験」は、こんなにも自分の見方も変えてしまうのだな、と思った。クラクフ行ってなかったら、この壁に目を留めることもしなかったはず。


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ポーランドといえば、トラム。どの街に行ってもトラム。
いろんな国でバスがトラムに変わっていく中、この国は相変わらずトラム(バスもある)。
「この光景、無くして欲しくない」と、都電光景を失った江戸っ子の私は願う。


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ヴロツワフの後は、ドイツに入ります。
書くのも辛い、読むのも重いテーマがあったと思いますが、ポーランド日記お付き合いくださってありがとうございました。





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ヴロツワフ(1)

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 11.2016 ポーランド
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Wrocławと書いてヴロツワフ(これはあくまでも日本語表記)。とても発音しにくい街です。
クラクフから列車で2時間半ほど。これがポーランドで一番最後に滞在する街になります。


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ヴロツワフ旧市街の立派な旧市庁舎。ゴシックとルネサンスの美の調和。



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ヴロツワフの歴史は目まぐるしく、いろいろな国、ポーランド王国、オーストリア帝国、ドイツ、ハンガリー、プロイセン、ボヘミアの一部になっていた。
ポーランドになるのは1945年、第二次世界大戦後から。


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1945年まではドイツ領。いろいろな国と文化の影響を受けたコスモポリタンな街。


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このカラフルさ!
旧市街の歩く楽しみは、この楽しい色調。


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クラクフは世界中からの旅行客が多い街だったけれど、ヴロツワフは世界的な知名度がないので、随分と静かです。
ポーランドの中で、クラクフの次に私は好きになりました。


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ポーランド人でなければ読み方が難しいブロツワフ。
結局、ブロツワフ滞在中はちゃんと読むことができないままでした(笑)
Wroclaw。。。。英語で読んじゃうと、「ラクロー」。ずっと頭の中でラクローだったんですねー。通じるわけないです。
クラクフからヴロツワフ行きの切符を買う時は、紙に書いたのを見せました(笑)


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この後ドイツに行ってドイツ人の友人と会ったのだが、ヴロツワフをドイツ風に発音すると、「ヴレスラウ」らしい。ややこしい。
クラクフでアメリカ人の友達に「クラクフの後はWroclawに行く」って話した時は、スペル読みした(笑)。彼の発音はまた違った。
もう、どうでもよくなる。


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市場があれば、必ず覗く。
もうちょっと長期滞在だったらAirbnbでアパートにして自分で料理するんだけれどね。


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ヴロツワフって、ポーランドで一番所得が高いらしい。
クラクフとかと比べてさほどそれは感じなかったのだけれど、若い女性のオシャレ度は、クラクフなんかよりずっと上だった。すれ違う女性がみんなきれいでファッショナブル。それは印象的。
でもブランド物ではなくて、高くないけれどデザイン性の高いものを身につけていた。スタイルが良ければ、それで十分かっこいい。


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ヴロツワフで持ってきた化粧水が切れた。
ポーランドは自然化粧品の質のいいのがあるらしく、それを求めにショッピングセンターに行ったら、高級店ばかり入っていて「へえー、こんな小さな町に」と思ってビックリした。その自然化粧品ショップは、デパート内でなく個人店で外にあったんだけど。
その自然化粧品ショップには誰も客がいなくて、私が入っていったら歓待してくれた(笑) 石鹸とかクリームとかどれも質が良さそうでいろいろ欲しかったのだけれど、重くなるんで必要な化粧水だけ買いました。まだまだ旅は続くんで。。。


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旧市街の北。オドラ川の向こうにある地域は、ヴロツワフで最も古い地域。


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高い二本の塔は、洗礼者ヨハネ大聖堂。
13世紀から300年以上かけて作られたけれど、第二次世界大戦中に破壊され、戦後再建。


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この橋にも、愛の南京錠がたくさん。
ここ10〜15年、ヨーロッパで流行り出したらしい、この現象。


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あまり多くなると、管理者にガツンと切られて処分されちゃうんで、愛も割かれちゃうぞ。


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ピヴニツァ・シフィドニツカ。Piwnica Świdnicka
ヨーロッパで一番長い歴史を誇るビアセラーで、創業は1273年。地元の名士や名門の貴族たち、ゲーテやショパンといった有名人が数多く訪れている。
私はビール飲まないんで、残念ながら中には入らなかったけれど、すごく興味のあるところでした。

ヴロツワフはビールパブがたくさんある。
ビール好きは、パブ巡りが楽しい街でしょう。


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夜景も綺麗な旧市庁舎。


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ヴロツワフのティラミス〜。
クリームの中に、ダークチョコレートの塊がゴツゴツっと入っていて、歯ごたえとともにすごく美味しかった。

このティラミスを出してくれたカフェのお兄さんはゲイだったのだが、ポーランドでゲイの人を結構よく見かけた。ワルシャワのカフェもそうだったし、他でもいろいろ。
ポーランドは保守的なカトリック国だし、フランスや北欧のように同性愛を社会的に許容しているイメージは持っていなかったので、かなり驚いた(いい意味で)。
聞くところによると、2011年に初めてゲイと公言している議員ロバート・ビードロン氏が、スウプスク市長に就任してから空気が変わったらしい。厳格なカトリック国が、劇的な変化をここ10年で遂げているとか。喜ばしいことです。


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次回はポーランド最終章。




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クラクフ・カジミェシェ地区(2)

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 10.2016 ポーランド
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クラクフのカジミェシェ(Kazimierz)地区いろいろ。
ここは今回歩いたクラクフの中で、一番好きな地域です。


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近年の再開発で、長年放って置かれた古い建物が再利用され、古着屋、カフェ、レストラン、ブティックなど個性的な店舗が並ぶ通りも。


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もしクラクフに住めるんだったら、絶対にこのカジミェシェ地区に住みたいなあ、と。


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歴史があって、アーティスティックで、市場があって、歩いて旧市街まで行ける。
アメリカだったらこういう場所、ディベロッパーがさーっとブロックごと買い取って急ピッチで再開発されちゃうんだけれど、さすがポーランドはそれほどスピーディに進んでいないようだし。


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ジェントリフィケーションは良し悪しあって、再開発で家賃が上がると昔からの古い住民たちが出て行かざるをえなくなる。そうするとコミュニティが崩れ、新住民だけの浮ついた見かけだけオサレな町になる。
そうなると、もうつまらない。


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あまりやり過ぎずに、いつまでもお年寄りも住みやすいエリアであってほしい。
若い人が集うカフェの隣に、おじいちゃんおばあちゃん御用達の店がある。ギターケースを抱えて歩くお兄ちゃんの隣に、市場帰りの買い物袋下げたおばちゃんが歩いている。
老若男女、あらゆる職業の人たちの共存の町こそ、魅力ですから。


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クラクフのトラムの停留所で、何度か人に何か聞かれた。なんで私に?他にポーランド人いるんだけど。
「●番(のトラム)は、●●行きますかね?」「●●行きたいんだけど、どれに乗ればいいんですか?」みたいなことだと思う。
「ごめんなさい、ポーランド語わかりません」と答えると、驚いて「あ、ごめんなさい!」って言われた。

ポーランドに来て10日ほど経った日。私もポーランドに住んでいる地元の人に見えてきたってことでしょうかね(笑)


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その街でもそうだけど、初日は街の地理や勝手がわからないから、キョロキョロする。
2日目には東西南北、どこに行けば何があるってことが頭に入るので、トラムやバスもスムーズに乗れるようになる。スーパーがどこにあるのかもわかる。
大都会でない限り、3日目にはかなり慣れる。小さな町なら3日間いると、じっくり体に吸収できる。
しかし慣れてくると旅はつまらない。慣れた時が移動だな、と思う。


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クラクフは見所が多いのもあって、5泊した。5泊は必要だった。
だけどさすがに「慣れ」が滲み出ていたんだと思う、道をポーランド人に聞かれるようになったってことは(笑)。


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アウシュビッツのような重い場所にも行ったけれど、クラクフに帰ってこれるから気が晴れた。
すごい雨の降る日もあったけれど、大雨でもクラクフは心を落ち着かさてくれた。


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パリと同じように、クラクフは適度に汚くていい。整然としていないところが魅力。


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カジミェシェの中心にある広場での蚤の市。


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パリの60〜70年代頃までの蚤の市の雰囲気。


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ポーランドの若い女の子は特におしゃれ上手。
スタイルがいい子が多いのだけれど、高いものを着ずに古着利用したりして個性的なおしゃれを楽しんでいる人が多い。
共産主義時代に青春を過ごした世代とのギャップがそこにある。


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先日、アウシュビッツの記事を書いたその夜に、アメリカでは信じられないことが起こった。トランプの勝利。
しばらく暗澹とした気持ちを引きずったが、ポーランドの写真を整理しながら自分の気持ちも落ち着かせている。
ポーランドという国は、我々の想像を絶するほどくるくると政権が変わり、価値観が変わり、そのたびに国民は翻弄され続けてきた。しかも、戦争や殺戮の悲しみの次は、一大カトリック国に共産主義の価値観を押し付けられる。怯えの後は自由の束縛。


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しかし、今のポーランドを見よ。ここにいる人はみんなサバイバーなんですよ。自分の国を捨てて他国に移住するのも自由。信じて残るのも自由。大事なことは、国や政府を信用しすぎないことだ。それは彼らが何世代にも渡って学んできたこと。

犠牲者でなく、サバイバーになることは大事である。
だが、ただ犠牲になるのなら人を傷つけずに済むところを、サバイブするためには拳を上げないと乗り切れられない場合が多い。平和的にサバイブするのは理想でなく幻想なのかもしれない。
アメリカ民主党にとっては、今後のアメリカは厳しい時代を迎える。どうなっていくのかを見るのは、楽しみでもある。いろんな膿が出てくるだろう。
「ナチスは他人事でない」と書いたその日に、他人事でなくなった現実。



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カジミェシェ地区にも美味しいコーヒーを出すカフェが多かった。


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また行きたいと思うクラクフですが、こればかりは縁なのでわからない。
一期一会と思って歩いたので、これでお別れでも悔いはない。
たくさん考えさせられるクラクフでした。思い出いっぱい。

あともう少しポーランド日記続きます。




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アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 08.2016 ポーランド
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クラクフからバスで約2時間のところにある、アウシュビッツ。
アウシュビッツはドイツ語だが、ポーランド語でオシフィエンチム。

ARBEIT MACHT FREI
「労働すれば自由になる」と記された、収容所の正門。


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正確には、ここはアウシュヴィッツ第一強制収容所。
短期間で多数の囚人が収容されたために手狭になり、隣にアウシュヴィッツ第二強制収容所(ビルケナウ)を作った。
この両方を合わせると敷地はかなり広く、第一から第二収容所まではバスを利用しないといけない。
まずここは、第一収容所。


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ホロコーストの代名詞とも言えるアウシュビッツ。
ドイツの「アーリア人至上主義」に基づいた民族浄化の「モデル施設」。
民族浄化のために邪魔なのは、ユダヤ人、政治犯、ロマ(ジプシー)、同性愛者、精神障害者、身体障害者、捕虜、聖職者、そして彼らを匿った人たち。出身国は28ケ国。ユダヤ人が90%を占めた。
労働に適さない女性、子供、老人、さらに「劣等民族」は即処分。
労働に適する肉体を持った人たちも、使い捨て。
ピーク時の1943年には、アウシュヴィッツ全体で14万人が収容されている。


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ガス室で使用されたツィクロンBの空き缶の山。


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収容所で没収された囚人たちのスーツケース。
「帰る時まで保管」という名目で、スーツケースに名前を書かせた。囚人たちに「いつか帰れる」と思わせておくことは、反乱を避けるために必要だった。


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囚人たちの食器。


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囚人たちがスーツケースに詰め込んできた髭剃りブラシ、歯ブラシ。
毎日髭を剃るような生活を送れると信じてやってきた彼らの希望が悲しい。


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靴墨。
革靴を磨くような生活もここに来るまで想像していたことを思うと、やりきれない。


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靴磨き用ブラシ。

洋服、靴、化粧道具、家族写真、絵画、、食器、ジュエリー、時計、ダイヤモンドに至るまで、すべて種類ごとに仕分けされ、貴金属やダイヤモンド類は監視付きで鑑定士に判別させた。
驚くのは、歯ブラシや靴墨に至るまで、細かくきちんと仕分けされている点。多い時は3ヶ月で10万人を超える人がやってきた。その莫大な量の荷物を、ナチスは神経質なまでに分類しているのだ。
貴金属は金、銀など種類ことに重量を記録。現金も貨幣ごとに記録。
貴金属に限らず、服や身の回りのものも事細かく日付入りで量を記録。
彼らは生真面目に自分たちの犯罪をせっせと記録わけだ。悪魔の収穫の記録。
戦後、自分たちで作った記録が揺るぎない犯罪の証拠となるわけで、人間には「完璧な仕事」ってないのだな、と思わざるをえない。


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処刑の壁。
刃向かった者だけが処刑の対象になるわけでなく、「こうしていれば殺されないで済む」というルールは全くなかった。
囚人の命は、全てナチスの気まぐれに委ねられていた。


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ガス室。
マイダネク(ルブリン強制収容所)のガス室は、囲いもガラスもなくて、床のすのこの上をそのまま歩いて中に入れることができた。だからすごく勇気が要り怖かった。
アウシュビッツのガス室は、フェンスの外から見る。訪れる人の数が違うので、この「立ち入り禁止」的処置は当然なのだが、その分見ている側と展示物に距離がある。
マイダネクは囚人の靴の山もむき出しで、ガラスで覆われているわけでないので、年月を超えたカビ臭さとホコリの匂いまでそこに漂い、それはリアルだった。
アウシュビッツの靴の山はガラスウィンドーの中にある。いくら透明でも、ガラスウィンドーって向こうとこちらをこんなにも遠ざけるものなんだ、と感じた。五感のうちの臭覚一つが使えないだけで、こんなにも感じ方が違うのだ、と思った。


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ガス室のすぐ横になる焼却場。
死体の山はユダヤ人のゾンダーコマンドによって運ばれ焼却された。
ゾンダーコマンドとは、ナチスが強制収容所内の囚人によって組織した労務部隊。部隊にいた囚人のほとんどはユダヤ人で、主な仕事はガス室などで殺されたユダヤ人(同胞)の死体処理。
ゾンダーコマンドの命や必要性は、彼らがどれだけ効率的に死体処理を行うことができるかによって定められていた。また、彼らはナチスの大量虐殺を認識しているので「秘密保持者 」とされており、ガス室に送られるユダヤ人以外の囚人達からは完全隔離されていた。にも関わらず、外部への情報漏えいを防ぐため、ゾンダーコマンドのほとんどは3か月から1年以内にガス室に送られて殺戮され、新しく連れてこられたユダヤ人が代わりとなっていくという仕組みだった。


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この3日前に、マイダネク(ルブリン強制収容所)を訪れていた。
今から考えると、短期間で2つの強制収容所を訪れるなんて、精神的にしんどいことをしたと思うが、ポーランドに住んでいるわけでないのでこのプランもやむをえない。


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マイダネクに比べると、アウシュビッツはあまりの人の多さに驚いた。ガイドと団体グループがひっきりなしに歩いていく。学校からの生徒も多い。さすがは知名度の高いアウシュビッツなわけで、世界中からやってくる。


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多くの人がここを訪れることはいいことなのだが、混んでいるとどうしても、展示物を見ている時に集中力が遮断されてしまう。
ここをじっくりと、そこにある気配を掻き消されないで見て回るには、オフシーズンとか悪天候の時を狙うしかないのかもしれない。真冬のマイナス10度くらい(!)の時の平日とか、確実に外に出ることを避ける層が多いはずなので、もし再度訪れる機会があるのならば真冬かなあ、と思う。


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アウシュビッツ第一収容所の後、ビルケナウへバスで移動。


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映画にもよく出てくるアウシュビッツのシーンはここ。
各地から列車で囚人たちがここに到着し、まず降ろされる。
何日間もの立ったままの状態の移動なので、すでに列車内で死亡している人(夏は脱水、冬は凍死)、病人もおり、ここでまず囚人の「仕分け作業」が行われた。労働組と不要組に。



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使われた貨物列車の一部。


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世界最大の絶滅収容所で思う。
ナチスドイツの残虐行為から、我々はもっと想像力を膨らまさないといけない。
我々誰しもが、ユダヤ人や他の囚人のようにいつなんどき犠牲者になりうる恐れがあるのと同様、残忍な行動ができる人間にも誰もがなりうる可能性があるということ。
ユダヤ人たちが他人事でないのと全く同じように、ナチスだって他人事じゃない。
自分の世界とは関係ないと呑気に眺めることは、単におめでたいだけ。


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残虐な人間だけが、残虐な行動を起こすわけではない。
大量殺戮を犯す目的で組織に入るのではなく、結果的にそういう組織に自分が染まっていくのが大半の人間。
「制服に憧れた」「エリート意識を刺激された」。。。こんな理由で、学校やクラブに入る人って結構いるだろう。SS(親衛隊)に入隊した若者だって同じだ。
「自分は選ばれた」。。。優越感を簡単に持ってしまう人は多い。ナチスはその優越感を刺激して、若者の心理をコントロールしたのだ。
当時のSSらの写真を見ても、堂々と制服を着て胸を張って歩くことが、相当気持ちよかったんだろうなあ、って想像出来る。

純真さ、生真面目さ、勤勉さ、熱心さ。全部親衛隊になる若者が持っていたものだ。


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残虐なナチス党員の中に良心を持った人物がいたように、善人に育てたはずの自分の息子が殺戮を繰り返す人間になることもある。
何かがひっくり返るきっかけなんてちょっとしたことで、幾つかの条件とボタンを掛け違えてしまうチャンスが訪れてしまうと、誰しもが信じがたいことをしでかしてしまう。
「自分は違う」「自分の子供は違う」「自分の恋人は違う」。。。。と、自分のことを含め過信しないことは大切だ。アウシュビッツは「ガラスの中の展示物」ではない。それに気づくこと。これが一番、アウシュビッツで学ぶべきことなんじゃないか、と私は思う。
ナチスが、ではなく、人間は残虐なのだ。
それは、今でも世界中で起こっている戦争が、内紛が、テロが、無差別殺人が、いじめが、ネットでの誹謗中傷が。。。。物語っている。


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死体の数が多すぎて、焼却炉が追いつかない時は、この溝に放り込まれていた。


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ソ連軍の接近を察知して、SSにより破壊されたガス室のあった複合施設(クレマトリウム)の破壊跡。
自分たちがしていた残虐行為をなかったことにする。。。。。 してきたことが「正義」だと信じられるのなら、こんなことはしなくていい。敗戦間近になって追われる立場になると、自分らの極悪非道な行為に気づき怖気付くのか。ああ、愚か。


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「アンネの日記」のアンネ・フランクと姉のマーゴは、ここアウシュビッツに収容された後、母と引き裂かれてベルゲン・ベルゼン収容所に連行され、そこで死亡。
アウシュビッツに連行されてから死亡まで、5ケ月から6ヶ月。これは、強制収容所における平均寿命である。

アンネは15歳で亡くなったが、同じ年頃16歳の女の子の双子の囚人の写真がアウシュビッツにある。最初の頃ナチスは、収容された囚人全員の写真を撮り、生年月日、収容日、死亡日をこれまた細かく記録をつけていた。だが送られてくる囚人が毎日あまりに多くなりすぎ追いつかず、途中でそれはやめたようである。
その16歳の双子の写真が目を引くのは、写真の中で笑っているから。アウシュビッツという非日常の中を歩いていて、怯える暗い顔をした囚人の顔写真ばかりの中、笑顔というのは異様なのだ。
だからつい、この笑顔の意味を考えてしまう。写真を撮る親衛隊が、「はい、笑って」とでも言ったのだろうか。一瞬でも、安心できる雰囲気がそこにあったのだろうか。
この双子も、収容後半年で両方亡くなっている。


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数ある強制収容所の多くは、その後取り壊され、証拠隠滅に整地し直して農民を住まわせた場所もある。あるいは放置され、森の中に線路だけが残っている場所もある。復元され、このように人が訪れることのできる収容所は数少なく、これらは存在した中のほんの一部。
人間は、目に見えないものを忘れてしまう習性がある。残っていない物は、「もともと無かった物」と信じたい人もいる。
アウシュビッツは、今は形も残らない各地にあった収容所の代表としての意味がある。


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クラクフ・ポドグージェ地区(クラクフゲットー)

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 07.2016 ポーランド
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クラクフのカジミェシェ(Kazimierz)地区から、ヴィスワ川を渡った南側に位置するポドグージェ(Podgórze)地区。
ここにクラクフゲットーができた。

もともとカジミェシェ地区にユダヤ人街の中心があったものの(裕福なユダヤ人たちは、ユダヤ人地区以外の他の地域に多数住んでいた)、1941年にクラクフ全体のユダヤ人は、ポドグージェ地区の狭いゲットー内に収められた。
(ワルシャワでも同じだが、その際、その地域に住んでいた非ユダヤ人は逆に他の地域に移動となる。)

労働不可能なユダヤ人(年配者、病人など)はクラクフから即絶滅収容所行き、労働可能な肉体を持ったものだけゲットー内に移動というわけだ。


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このポドグージェ地区にあるのが、映画でも有名なシンドラーのホーロー工場。
Lipowa通り4番地。
今も全く同じ場所に工場は建っている。

戦後長年他企業の工場として建物は使われていたが、映画のヒットのおかげで博物館としてリニューアルする運動が起こり、中を大改装して2010年にオープン。


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"Schindlerjuden"、英語で "Schindler's Jews"と呼ばれる、シンドラーに命を助けられた1100人の生存者たち。


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"Whoever saves one life saves the world entire."
「一人の人間の命を救う者は全世界を救う」
ユダヤ教の教えの言葉のひとつで、これはシンドラーの墓にも刻まれている。
映画の中でも出てくるように、終戦を迎えてユダヤ人たちとの別れのシーンで、彼らから贈られる金の指輪にも掘られている言葉。


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博物館は、シンドラーのことよりも、クラクフのユダヤ人の歴史、ホロコーストについての展示物が多い。


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ドイツ軍に提供するためのホーロー食器を作っていた工場。
ナチスの当院でもあるシンドラーは、「軍需工場でユダヤ人労働者をタダで使う」という大義名分を掲げうまく軍部を説得し、私財を投げ打って自分の工場で働くユダヤ人を守り切った。
生存者たちの証言のフィルムが博物館で見られるが、工場内で出される食事はちゃんとしたもので、ゲットー内の食事とは比較にならないほど栄養が摂れたという。
シンドラーは闇市で食料も調達していた。


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この工場の入り口。映画でもよく出てきてました。
シンドラーは決して誰でも助ける慈善事業をしていたわけではなく、労働力、スキルのある人を選んで雇い入れていた。それはナチスから目をつけられずに説得性を持つためでもある。生産性を上げて金を作る。その金でナチス党員たちにご馳走を振る舞い話を取り付ける。
やり手のビジネスマンだったからこそ、まとまった数のユダヤ人を公に堂々と、強制収容所へ送らせずにゲットー外で生活させることができた。
いろんな形でユダヤ人たちはポーランド人らにも助けられ生存することができたけれど、シンドラーがしたような形は例を見ない。


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ナチスが収奪したユダヤ人の所有物。
裕福なユダヤ人も多かったので、彼らはゲットーへ移動させられる時もスーツケースに沢山の銀食器や燭台、絵画、楽器、そしてダイヤモンドなど宝石も持ち込んだ。
当然ながらそれはゲットーへ入る前に収奪されるわけだが、ダイヤモンドをゲットーに隠し持つユダヤ人たちも多くいた。


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展示物は見るものも読むものも多い。
写真も多数展示されているが、つい「忘れたくない」と思って写真に撮った写真(変な言い方だが)。
正統派ユダヤ人たちは髭を生やしているが、その髭は命とも言える。ゲットーに押し込められてから、ナチスがその髭をナイフで切る光景は映画でも写真でもよく見てきた。
ここにある1枚で、髭を切られている老人がカメラに向かって笑っているのがある(上段左。見にくいけど)。カメラ(ナチス)に向かって咄嗟のこの笑顔は、「死にたくない」という命乞いの笑顔なんだろうな、と。
殺してやりたいほど憎いナチスに、怒りでも無表情でもない笑顔を向ける。屈辱でもあろうに。
心に残る表情。


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ゲットー内で暮らしていた子供達の作文が残っている。
言葉はポーランド語。5歳なのにシッカリした文字。

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これは英訳。内容もシッカリ。

心に残る作文があった。それも別の5歳の子が書いたもの。
「ゲットーには4つの大きな門がある。でも我々はそれを通ることはできない。厳しく禁止されている。3番のトラムがメインストリートを行ったり来たりするけれど、我々は乗ることができない。それも厳しく禁止されている。だからもう、トラムはゲットーに止まらなくなった。
ある日、トラムの窓から男の子が、パンのローフをいくつか、僕らの足元に投げてくれた」

おそらくパンを投げた男の子はポーランド人なのだが、彼らはユダヤ人を助けると処刑されていた。だから親切も命がけ。
しかも知らないユダヤ人にパンを投げてよこすという行為を、年端のいかない少年がする。一体どういう思いでポーランドの子供達は、ゲットーの壁やそこに押し込められている惨めなユダヤ人たちを見て過ごしていたのだろうか。
そしてこの作文を書いた少年にとっても、このことはよほど嬉しかったに違いない。


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シンドラーの工場の周辺も、中小工場地帯。

だから工場地帯にある博物館。
ここに行く時トラムに乗ったのだが、工場前にトラム駅があるわけではない。トラムの中の乗客の女性に降りる駅を告げると、「そこに着いたら教えてあげるから。シンドラーの工場に行くの?」と聞かれた。
「そうです」と答えると、女性は窓から見えてきた工場の建物を指差して、「あそこが工場だから。そこの通りをまっすぐ向こうに歩いていくのよ」と、降車の前に親切に教えてくれた。


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ゲットーがあったこの地域は、戦後開発もされていないので、戦前からの建物が残っていて独特な雰囲気。
カジミェシェ地区とは全然違う。


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残存するゲットーの壁。
ワルシャワゲットーはレンガ壁だったが、クラクフはコンクリート。

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元ゲットー内にある、Zgody広場(Plac Zgody)。
各強制収容所に移送されるユダヤ人の集合場所に使われた。ここでユダヤ人の家族が引き裂かれ、抵抗するものは暴行され、殺害された。

今は椅子のモニュメントがある。
子供達がゲットーに移送される時、学校から自分の椅子を各自運んでここに持ってきたことに由来する。
また、ユダ人が家から持ち運んだ家具類はゲットーに入る前に制限され、ここに散乱していたから、という意味もある。


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この広場の前にはバス停があり、この椅子に座って待つこともできる。
ユダヤ人に限らず、「誰でもいつでも犠牲者になりうる」という意味合いも込められている。


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写真の左奥、薄ピンクの建物は、イーグル薬局の建物。
この薬局は100年ほど前ユゼフ・パンキェヴィチというポーランド人が創業し、その後、息子のタデウシュが後を継いだ。1941年3月にドイツ軍がポドグージェ地区に ゲットーを設置し、この薬局はゲットーの敷地内になってしまった。ナチスはパンキェヴィチにゲットーの外に移動して営業するように言ったが彼は断り、同じ場所で営業を続ける。ゲットー内にある唯一の薬局であり、彼がゲットー内のただ一人のポーランド人だった。
パンキェヴィチは「シンドラーのリスト」でも登場する。広場に集められた怪我人のユダヤ人を助けようとするのも彼だし、ナチスが彼の病院内に来て「労働力にならない」入院患者から殺害することを知った時に、毒を医者に渡して患者に飲ませ、銃殺の前に息を引き取らせたのも彼。
映画のヒット後スピルバーグ監督が寄付金を出し、この薬局は修復保存される運びとなり、現在は博物館となっている。


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この広場近くの壁に、反ユダヤ主義のマーク。
わざわざここに足を運ぶヘイターがいるってことですねえ。

何事も、賛同者と反対者、支持者と妨害者はバランスよく存在しないと健全ではないと思う。やみくもな愛情や崇拝は憎悪と同じくらい危険だし、嫌悪や憎悪にも理由がある。
ユダヤ人が嫌われるわけもわかるし、好きも嫌いも自由。
人間は、近づきすぎるほどコミットすればするほど、知れば知るほど、憎む要素も増えていく生き物だ。
誰からも適当な距離を置いて生活できるなら、人は憎悪という感情を持たずに済むのだろうけれど、そうはいかない。憎悪も、人間が持つことを許された感情だと思う。それをどうコントロールするか、そこが試されるところなのだが。


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いろいろと盛りだくさんのこの街。クラクフ日記、まだ続きます〜




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