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整理・処分の仕方(3)ぬいぐるみの思い出

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 16.2013 思うこと/考えること
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今日は番外編。子供の頃のぬいぐるみの思い出。

私の生誕祝いにいただいたのか、3歳ころのお誕生日プレゼントだったのか、母の友達からもらった大きなクマのぬいぐるみをよく覚えている。
3歳の頃のお誕生日だったのかな?と思うのは、3歳のころの写真によく一緒に写っているからだ。
当時の私と同じくらいの大きさで、私はいつも抱いてよく可愛がっていた。
弟と年が離れているため、小学校1年まで私は一人っ子。だからクマさんが私の兄弟のようなものだった。
食事のときも、私は隣の椅子にクマを座らせた。食べ物も母に内緒で食べさせていたと思う(笑)。
子供の手で何年もいじくりまわされているから、かなり薄汚れていたクマさんだったとは思うが私にとってはそんなことは関係なかった。

小学1年生のとき、同じ都内であるが家の引っ越しをすることになった。引っ越しの準備については、私は子供だったので全く覚えていない。
そんなあるとき、母が私に言った。
「新しい家に行ったら新しいぬいぐるみ買ってあげるから、その古いクマさんは置いていかない?」と。
そう、クマさんを捨てたら?という提案なのだ。
相当大人の目にはみすぼらしいクマさんだったのかもしれないが、私にとっては分身だったので、そんなのイヤだとわんわん泣いた。体の底から大泣きしてイヤだと訴えた。
大泣きしながら、母の顔色を伺っていたのも覚えている。母は困ったような顔をして、「そんなにイヤなら仕方ないか」とあきらめかけていた。このままもう少し泣けば、母は「じゃあ持って行っていいわよ」と言うに決まっていた。

ところが私はそのとき、わんわん泣いている自分がすごくイヤになったのだ。
泣いていること女々しくてイヤなのではなく、「クマさんを捨てられない」という未練がましい気持ちに。
大人の考えからすると、「古いものは捨てる」というのが常識なのだろう。だけど「子供」の私は、ダダをこねて「子供っぽい」クマのぬいぐるみに執着している。そんな自分がイヤになったのだ。
当時は、もちろんこのように自分の気持ちを分析することはできなかったが、わんわん泣きながら自分に腹が立っていたことは、ハッキリ覚えている。
未練がましいことは潔くない。全然カッコいいことではない。子供ながらに、そんな人間になりたくないってことだけは思っていた。
ここでクマさんとお別れしなければ、「そんな人間」になってしまいそうでイヤだった。

私はまだ大泣きしながら、母親の前で抱いていたクマさんをポイとゴミ箱の中に捨てた。
母の前で「これでいいんでしょ」と見せつけたかった悔しさもあるし、自分の中でこのように決別しなければ気持ちの踏ん切りがつかない、という両方があった。
母ばビックリして「それじゃクマさんが可哀想」と言ったような気がするが、私は母と自分の両方に怒っていたので、クマさんを再び抱く気になれなかった。

あの「ゴミ箱へポイ」の一件があってから、私の気持ちは実にさっぱりした。
幼少時代から遊んで来た古いものへの決別ができたことで、大人になった気さえした。
不思議と、勇気を出して捨ててしまうと、あとは迷わないということもあの時に知った。爽快な気分である。

新しい家に引っ越してから、「新しいぬいぐるみを買ってあげる」なんて言ったことを母は忘れているのか、新しいクマさんはなかった。私も「買って」と全く言わなかったからだろう。
親戚のおじさんが新しいクマのぬいぐるみをくれたが、全然かわいくなかったので部屋のすみに置くだけだった。ぬいぐるみなのに体がかたくて、抱く気にもなれなかったわけだ。

一般に、子供は何歳くらいまでぬいぐるみを持ち続けるのかは知らないが、私はあの小学1年のときのクマさんとの決別以来、ぬいぐるみを抱いたことがない。
あれ以来ぬいぐるみが欲しいと思ったこともない。
中学生の頃、女友達の家に遊びに行ったとき、彼女の部屋がぬいぐるみだらけだったので驚愕したことがある。ハローキティやスヌーピー、そしてミッキーマウスやら。ベッドの上にもソファの上にもいたるところに。
私には縁のない趣味だったが、そんな私にもぬいぐるみと遊んだ年頃があったなあ。。。とクマさんを思い出したりした。

あのとき、母に提案されてなかったら、クマさんを新しい家にそのまま持って来ていたらどうなっていただろう、と思う。
いつクマさんを捨てる気になったのだろうか?中学生になるときだろうか? 捨てる機会とずっと巡り会わなかったかもしれない。置く場所があれば、捨てる必要性を感じないから。
人間の生活には節目節目がある。子供の頃は学年やクラスが変わるとか中学に入るとか高校生になるとか卒業するとか。
そして引っ越し、一人暮らし開始、結婚、離婚、子供が家を出て行くとき、新築、改築、転勤、海外移住、いろいろ。
そういう節目のときには荷物整理がつきまとう。節目を利用してきれいさっぱり片付けるというのは大切なことだ。
古い思い出を全て捨てるわけではないが、古いものとお別れするときに、そこで馴染んだものとお別れする儀式も必要だと思う。お世話になったおもちゃ、本、食器、家具、楽器。。。物に感謝してお別れをいい、新しい場所で新しい生活を始める。古いものが少なければ少ないほど、新しい扉は開いている。新しいものと向き合うしかないのだから。

クマさんと決別した私には、クマさんの記憶がしっかり残る。頭の中に、心の中に。別れたら心に残らない、のではないのだ。
もちろん記憶というのは整理されて残るので、大切じゃないものはどんどん消えていく。だが、大切な思い出は記憶の引き出しに入る。
脳の引き出し能力というのは、実際の収納棚よりもずっとすごいことを覚えておくべきだ。物置にも収納庫にも治まりきれないものでも、脳の引き出しには簡単に入る。しかも、その物の大切度次第で永遠にしまっておける。
大切な思い出のものの中で、記憶だけで十分なものの方がはるかに多いのだ。

私は節目節目には潔くバンバン物の処分をする方だが、それが出来るのもあのクマさんのおかげだなあ、と思うのだ。あの年でその経験ができて、よかったと。





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