ダークな家族ドラマ

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 18.2014 映画よもやま話
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傑作戯曲が映画化された作品、August: Osage County(邦題:「8月の家族たち」)。
台詞がぶつかり合う室内劇だが、役者の演技合戦が炸裂するこの作品はみもの。よくできた脚本。
オクラホマの片田舎の、ある家族の再会物語。

がんを患う、処方薬中毒で毒舌で一筋縄ではいかず、誰もが扱いづらい母親役がメリル・ストリープ。
母親を疎ましく思っているが、実は一番その母親に似ていて気が強く、今はコロラドに住む長女役にジュリア・ロバーツ。
両親の住むオクラホマを出て行かず、一番辛抱強くて面倒見がよく、だけど実はすごくシニカルに家族を見ている次女役にジュリアン・ニコルソン。
男にだらしなく、家族からもあまりあてにされてず、フロリダに住む三女役にジュリエット・ルイス。
この母娘4人と、母親の妹役のマーゴ・マーティンデールの女5人が主役といってもいいドラマ。

父親の失踪と自殺で数年ぶりに家族が顔を合わせるのだが、いがみ合い、罵り合い、長年の憎しみや苛立ち、怒り、不信などが食事中に炸裂し、いきなりこの家族の機能不全ぶりが描き出される。
血のつながっていない、女性たちの夫やフィアンセたちは脇役なのだが、この家族の凄まじさにオロオロ、驚き、あきれ果てる。

ブラックコメディというより、すごいダークなコメディドラマ。この家族の底辺に沈んでいるものは、実はすごく暗くて深い。

底意地が悪く、人の前で平気で人を攻撃する口の悪い母親。
親子でも、分かり合うことや話し合って認め合うことは不可能な関係もあり、この母娘たちは大人になるまで分かり合う時間もチャンスもなかったのだろうな、と思わせる。
リスペクトし合うことが無理で、一緒にいるとお互いに神経をすり減らしてしまう関係ならば、距離を置くことでしか解決出来ない。
長女(ジュリア・ロバーツ)は、だから家を出ただけでなくオクラホマを離れたのだ。5年もオクラホマに帰ってこなかったことをとやかく言われるシーンがあるが、長女は一番母親と闘って来た立場でもあり、その苦労は次女や三女は理解できないものであろう。長女がいてこそクッションがあるのだ。
3人の中で一番気の強さを持っているが、それだけに尖らなければいけない宿命を背負っている長女。母親からの直撃を、不条理な八つ当たりを、ただ優しく受け止めていただけならば自分が壊れていただろう。それを跳ね返してきたから生き残っているのだ。
彼女が、反抗期の14歳の自分の娘に意味深なことを言うシーン。
「私の後に死になさいよ。アナタの人生なんだから好きなことやって構わないし、メチャクチャになろうがアナタの勝手。だけど、生き延びなさい」

彼女(長女)は生き延びて来たのだけれど、自分の母親と同じように身近な人間を傷つけてしまう。
自分の夫は去り(家族の集まりには夫婦仲を取り繕って出て来たけれど)、娘からも愛想を尽かされる。
優しくすることができず、甘えることができず、人をコントロールしようとしてしまう、母親の一番イヤな部分を受け継いでしまっている性。

次女は長女と違って無駄なことを言わず、一見扱いやすい娘に見えるが、とてもシニカルに家族を見つめている。一人オクラホマに残り、勝手気ままに出て行った姉と妹を冷めた目で見、自分もNYに行くプランがあると話す。
だったら誰がオクラホマに残るのよ?という話になるが、長女と三女は、次女の存在があるからこそ気ままに出て行くことができ、何年も両親に会いに来なくてもいられる立場にあったわけだ。
彼女は姉にも妹にも、なんのつながりも感じていないと冷たく言い放つ。たまたま、偶然に血がつながっているだけ、と。
次女にも、次女の暗さがある。表立ってハッキリ言わない性格だけに、積もり積もった念がある。

三女は、ちょっとオツムが弱くて、男に弱くて、空気が読めない女をやらせたらピカイチのジュリエット・ルイスが演じていて、彼女のとぼけた存在が一番和む。
父親の葬式に、結婚もしていない「フィアンセ」を連れて来てしまうのだが、この男がまた胡散臭くて家族から疎まれる。結婚式のプランを延々と話すのだが、誰も彼女が本当に結婚出来るとは思っていない。
三女は長女のように毒舌もはかず、次女のように冷淡でシニカルでもなく、ふらふらとしていて頼りないのだが、彼女は彼女なりのサバイバル方法で生き延びて来たのだ。
あまりに悲惨な家族の現状から逃れるため、現実から目をそらして生きる生き方。彼女には、長女のように真っ正面から母親に向かって行く強さは持っていない。男性の存在は彼女にとってはサバイバル道具なわけだ。毎年入れ替わる男性のことを家族たちは誰もが馬鹿にしているが、そうでもして「どこか」に身を置かなければいけない彼女の精神状態を作ったのはその家族であることに、家族の誰もが気づいていない。

母親(メリル)が娘3人に、若い頃にすごく欲しかったカウボーイブーツの話をする。
どれだけそのブーツが欲しかったか。クリスマスに頼んでそれをどんなに待ち望んでいたか。
だけど箱の中に入っていたのは別のもの。母親から受けた嫌がらせ。嘲り。
娘の落胆を笑う鬼のような母親。
自分の意地悪さは、母親から受け継いだものね、と言う。

出口のない話。
その母親を同情したところで、被害者の娘たちは救われない。きっと、母親の母親も意地悪な母親を持っていたのかもしれないけれど、だからと言って話は解決しない。
こういう人間関係で唯一できることは、なにしろ距離を置くことしかない。離れていれば、傷つけ合わないで済む。

失踪して自殺してしまった父親が、家族の底に流れる暗さの鍵を握っていたこともあらわになる。
皮肉だが、この家族劇の中で一番愛情があるのが、実は血のつながりがなかったことが明らかになる父親と息子(母親メリルの妹の夫と息子)。この2人はお互いに信頼し、愛し合っている。

このドラマは、みんな再び離ればなれになって終わる。
集まる前よりも悪い状態かもしれない。もうこりごり、と思ったメンバーもいるだろう。
きっと次に皆が顔を合わせるのは、母親のお葬式のときだろう。
その程度の関係の方が、おだやかに収まる家族もある。
血がつながっていようが、自分が傷つけた人間関係は、自分で代償を払わなければいけない。人を傷つけてしまう原因が他人にあったとしても、原因を責めたとこで人への傷は癒えないのだ。

逃げることは生き延びること。
長女は少なくとも、自分の娘に忠告したように、母親が死ぬ前に自殺はしないであろう。それだけでも親孝行なのではないか。
傷ついたことも、傷つけたことも、背負って生きる。

ドラマのオリジナル脚本は、T.S.エリオットの詩で終わる。
"This is the way the world ends, this is the way the world ends."

すごくダークな家族の話だが、コメディ仕立ての脚本。
ジュリア・ロバーツ、ジュリエット・ルイス、マーゴ・マーティンデールの時たま見せるすっとぼけた表情は笑いを誘い、劇を和ませる。
ジュリアやジュリエットが、中年女姉妹役をやるようになったかと、それも感慨深い(笑)。
90年代を飾った華やかな綺麗どころが、顔のしわを隠さない演技派女優へと変貌して頼もしい。
特にジュリア・ロバーツは、怪物メリル・ストリープに負けず劣らずの迫力演技。
ジュリエット・ルイスは昔から危なっかしかったが、再び映画界に戻って来てくれて嬉しい。彼女には彼女しかない持ち味があり、それも健在。独特の台詞回しや声、表情や仕草。演技を付けられて身に付くものではなく、それは彼女が持って生まれたもの。強烈な個性は、出番がメリルやジュリアに比べて少なくても、インパクトを残す。今後も、壊れた中年女でもアル中役でもいいから(笑)、また大いに暴れてほしいものである。




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