12 Years a Slave

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 12.2014 映画&ドラマよもやま話
12yearsofslave.jpeg




観ようと思いつつ観ていなかった今年のオスカー作品賞受賞作品。先日やっと観た。

期待を裏切らない、よくできた作品ではある。
だが、再度観たいか?再度観るだろうか?と言われればきっと観ないであろう。
1年に一度、あるいは数年に一度は観直したくなる映画もあれば、「一度は観た方がいいが、一度で十分」という映画もあり、この作品は私にとっては後者。

内容はこれから観る人が日本では多いと思うので書かないし、元になった本のことなどもあちこちで解説されているだろう。
奴隷生活を体験した人自らの手記、という点を除けば、さほど新しいストーリーはない。

二つの典型的なタイプの奴隷主が登場する。
一つは、奴隷制には実は反対で良心を持っているのだが、積極的には動けず周囲に逆らえない気の弱い奴隷主(こういう人が多かったのだと思う)。
そしてもう一つは、絵に描いたような暴力的な奴隷主。
主人公ソロモンの最後の奴隷主は残虐な奴隷主だった。彼は自分の奴隷の若い女性に好感を持っており、妻からそれを疎まれている。妻の奴隷女性への嫉妬。好感を抱いているのに、家畜としか扱えない奴隷主の屈折した感情。
「好感」というのは、ルールだのモラルに逆らえない感情だ。人間が抱く、最も自然な感情だ。だが、相手が黒人奴隷だとなると、それは「あり得ないこと」になる。自分が奴隷に好感を抱くなんて、奴隷を愛おしいと思うなんて、絶対にあり得ないのだ。相手は人間ではないのだから。
だから奴隷主は、自分の本来の感情にさえ気づかない。あり得ないことを認めるわけにはいかないのだ、頭の中では。その屈折さが、彼をさらに暴力的にしているのかもしれない。

この映画のプロデューサーであるブラッド・ピットが、映画の中でソロモンを助ける親切な大工に扮している。
南部の白人にとって、奴隷制に対する疑問を声を大にして言うことも危険なこと。奴隷を助けることは、彼にとっても命がけ。映画では描かれていないが、実際にこの人物はソロモン救出のためにかなり時間をかけて動き回ったらしい。

ナチスが全員極悪非道な人たちばかりでなかったのと同じように、奴隷主にも「暖かい」人たちは多かった。
相手(黒人やユダヤ人)を人間として見ず、なんの心の痛みも疑問も感じず、自分ら同胞民族の繁栄や「正義」のために、奴隷や囚人として扱うことをよしとするだけでなく、残虐性を持って彼らを痛めつけることになんら平気な人たちは少数派であったと思われる。
また、自分の命や危険を顧みず、被害者弱者である者をかくまったり救助したりする勇敢な親切な人も、同じように少数派であった。

奴隷制やナチスに「NO」と表立って言えずに受け入れた生活を送る市民は、そもそも冷酷なのではないかと言えるかもしれないが、市民とはそういうものだ。
自分や自分の家族を守るためには、社会のルールが不正義であると分かっていても逆らえないのである。
だから、「奴隷主」という「悪」の中にも「暖かい」人が存在する。人間は、簡単に悪や善に分けられない。

こういう映画を観るときに、「自分がこの時代にそこに生まれていたら」と想像する。想像するときに、自分が極悪非道な奴隷主や、被害者の奴隷に置き換えることはない。また、自分の命を顧みずに彼らを救出するヒーローに例えることもない。
今の自分が一市民ならば、「大衆の一人」に置き換えてみよう。
奴隷制が当たり前の南部に生まれ、生家がお金持ちのプランテーション一家じゃなくても、奴隷が周囲に普通にいる環境で生まれたとする。
奴隷の子供たちが自分と同じ学校に通えないことを疑問に思える子供になるだろうか。
奴隷たちが貧しい奴隷小屋で過ごしているのを見て疑問に思ったとしても、彼らの生活改善のために積極的に動く人になるだろうか。
奴隷制に疑問を感じる大人になったとしても、自分にできるせめてもの「善」は、彼ら(奴隷)につらく当たらない、という認識に落ち着くだけではないのだろうか。
北部の人間から見れば、南部はいつもその保守性や時代錯誤的な差別主義をバカにされる。
だけど、自分がそういう場所に生まれ育ったら、そういう価値観の社会や家庭で育てられたら、自分だってその価値観を受け継ぐのではないか?
そう考えると、「白人の奴隷主は全く。。。」と言えないのである。自分が一番愚鈍な一般市民になっていたかもしれないのだから。

奴隷制という悪習は一体なんだったのか。
奴隷の歴史を学ぶことは大切だし、悪習が生んだ極悪非道な白人の歴史を顧みるのもいい。
そして自分を「なにもできない一般市民」に置き換えることで、人間の本質を考えることができる。
「自分」は、奴隷制に全く疑問を感じず生活する人間か、感じてもなにもできない人間なのだ。南部で奴隷制が公認され長引いたのは、そういう「人間」たちのいる土地だったからだ。

常に「一般市民」というのは、自分に直接関係なく被害が及ばない問題に関しては他人事なのだということ忘れてはいけない。
問題の大小の違いはあれど、世の中には常に、社会の悪習(あるいは古い習慣や法律)や不正義の被害者がいる。自分の周囲にも立場の弱い人たちは常にいる。
だけど、自分や家族に直接関係なければ、「気の毒に」と思いつつ何もしないのが一般の「我々」である。
奴隷制が行なわれていても、自分や家族は奴隷ではない、奴隷主というわけでもない、奴隷は周囲で見かけるけれど自分には関係ない、自分は自分の学校や仕事で忙しい、奴隷制は悪習かもしれないけれど、奴隷制があるから自分の暮らす南部は成り立っているんだよな、だから100%否定はできない、自分だって間接的には奴隷制に恩恵受けてるのだし、これが自分の生まれた土地(国)の歴史だし文化だし、何百年も続いたものは簡単に変えられないよ。。。。。
。。。我々が今現在住む社会にも、置き換えられる問題は沢山ある。

一般市民は無責任であり、その無責任さが時に大きな悪を生む。
「どこか遠くの昔の話」としてではなく、奴隷制をよく知らない若い日本の人たちにも観て感じてもらいたい。
自分が弱者を救い出すヒーローになれることなど間違っても想像せず、罪深き一般市民にしかなれないことをしっかり受け止めながら。
「そこ」にいるのは、自分なのである。



料理ブログ「アメリカ・多国籍食堂」も更新しております。どうぞよろしく♪
(「アメリカ・無国籍食堂」から変更しました)
最近のメニューは、ジンジャーパウンドケーキアスパラガスのパイシート包み揚げ白身魚のレッドカレーなどなど。




『黒人コミュニティ、「被差別と憎悪と依存」の現在』高山マミ著
亜紀書房より去年発売されました。
Amazon
ビーケーワン
丸善&ジュンク堂
楽天ブックス
セブンネットショッピング



『ブラック・カルチャー観察日記』高山マミ著 
全国の書店で好評発売中!!
Amazon

スポンサーサイト