「冷たい熱帯魚」

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 03.2016 映画&ドラマよもやま話
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園子温監督の「冷たい熱帯魚」
日本にいる友人に勧められて最近観た。ストーリー、元となった実話の話はここでは省略します。
また、これは映画評ではありません。映画を観て何かに感応する。映画を観終わった後に時間を費やすのは常に映画の感想ではなく、自分の心と向き合う時間。

こういう物語を見るといつも思うのが、殺人を平気でできる人間と、そうでない人間の間にある「差」のことだ。
そこには大きな差がある、ということではない。人間は、ちょっとしたボタンの掛け違いや偶然の積み重ねで、そのボーダーを越えてあちら側の人間になれてしまうのだろう、、、それはそう難しいことではないのだろう、ということ。世の中の人間は「殺人できる凶悪な人間」と「そんなこと考えられない善良な人間」とに分かれているわけではないのだから。
偶然の積み重ねのまず最初だが、それは自ら選べない幼少期の境遇や経験から始まることが多い。自分の親が狂っていれば、まともな精神を育む機会さえ失われる。恐怖や憎悪を親に対して抱き、悲観して泣き続け、不条理なことに許しをこう日々を送っていれば、自分の姿を通して自分の弱ささえも憎悪の対象となってくる。
自分を責めるだけで人を傷つけられない人間は、自殺を選ぶのだろう。だが生き抜くことを選んだ場合、それは凶暴な力に化ける場合がある。愛情を与えられずに虐げられた人間は、人を傷つけた時の罪の意識を持つことができない。破壊するほど虐げられる経験をいうものをした人間でないと理解できない。理解できなくとも、我々は想像することができる。せめて想像する力を育てないと、我々は周りにいる人間さえ理解し難くなる。全て、自分に関係のないものではなく、大いにつながっているのだから。

暴力や虐待をする人間は、自らが虐待の被害者だったことが多いのはどの社会でも同じである。植え付けられた恐怖や悲壮は、歪んだ形で爆発させないと自らを守れないという、悲しい自己保身術。
完全犯罪に近い連続殺人ができるとなると、それは「頭の良さ」が加わらないとできない。虐待されてきた人間の反発の強さに、計算できる頭脳が加わったら、家族に手をあげる程度では済まなくなる場合もある。
人の弱さを見る洞察力や、問題を抱えている人間に歩み寄るあざとさは、カルト集団の教祖たちと同じ。悪の帝国は完璧なる需要と供給で成り立つので、教祖と信者は切っても切れない関係になる。

そんな「悪人」の配偶者になれるような人間というのも、同じように歪んだ精神を育まずにいられない環境で育ったことは容易に察しがつき、お互い磁石で寄せ付け合う。1人よりも2人になるとさらに極道のパワーはアップする。手をくだす犯罪は、完璧さに数を増し日常化する。
自分に邪魔な人間を消す、という発想でしか生きられない。とある人間の存在自体が悪夢である、という概念を幼少の頃に植え付けられるのは壮絶なことだが、虐待以外でもストーカーに追われるような経験をした人なら想像がつくかもしれない。その人間がどこかで生きているというだけで、不快を通り越して恐怖を覚える。

映画には、極道夫婦ともう一組、ごくごく一見普通に見える夫婦が登場する。
前妻と死別し、若い後妻を持つ小さな熱帯魚屋の主人。前妻との間に年ごろの娘がいるが、後妻とおりが合わず家庭は不協和音。娘の非行、後妻のストレスと夫への静かな文句と恨み。それを見て見ぬ振りして繕う気の弱い夫。
悪事を堂々と行う極道夫婦と、水面下で大問題を抱えながら見て見ぬ振りする夫婦は、決して対照的ではない。抱えている不満も欲望もずるさも、実は似たり寄ったりなのだ。
極道夫が、弱々しい夫に言うセリフがある。「お前は、小さい頃の俺にソックリだ」
痛いことされても、泣けば済むと思っている。自分が耐えればいいと思っている。嫌なことに蓋をすれば、丸く収まると思っている。
そうやって、どんどん膨らむ問題に向き合わず、いじいじしている姿が大っ嫌いなのだ、極道男にしてみれば。昔の自分を見ているみたいだから。

殺人場面や死体処理に遭遇しながら、最初は怯えていたヨワヨワ夫も、次第に変貌していく。
脅される恐怖、取り繕う気の弱さ、自分が背負う負のパワーは、沸点に達すると凶暴なまでに正体を現す。育った環境により高い自己評価を得られなかった人間は、人から見下されることに強い反発を覚え、自己防衛のために人を傷つけることができるようになる。人を傷つけることによって得られた快感、開放感は、弱い自分への決着となる。

弱い人間は強がっている人間の格好の餌食であり、それは善悪では線は引けない。弱い人間の本当の弱さはずるさであり、強がる人間の巧みさはその弱さを見抜くところである。お互いに必要なのであり、加害者と被害者とでは線は引けない。

残忍なことができる人間というのは大概反省の余地などなく、更生も無理だ。更生も無理なほど残忍な人間に育ってしまったというのは、想像絶するほど酷なこと。
自分の子供を残忍な人間に育ててしまう残忍な親というのも、その親の被害者である。負のスパイラル。生まれてきたのは自分の意思ではないのに、「生き抜け」と世間に言われたら生き抜くしかないだろう。
映画の中の、巨大熱帯魚ショップを経営する残忍な殺人をする村田という男は、表向き気さくな明るいおじさんだ。ある人間には胡散臭くとも、ある人間には間違いなく好かれるタイプ。
世界をもっと小さくして例えてみる。小さな子供がいて、その子はごくごく普通の、大人の目から見れば「いい子」。だがとある子供にひどい意地悪をする。いじめられた子供はひどく傷つき、一生をのトラウマを引きずって生きていく。いじめた方は、もちろん覚えていない。「いい子」はまともな社会人に成長するが、とある人間にとってはずっと「悪魔」なのだ。
罪のない人間などいない。罪のない人間も作れない。この映画のラストも、それを示唆するシーンが出てくる。
子供を産み落とすことは、大きな喜びとともに、大きな罪でもあるということ。それを忘れちゃあいけないんだよな、と思う。

最後、映画の中の世界に話を移す。
俳優陣が皆素晴らしい。残忍なのにひょうきんでどこか憎めない村田を演じるでんでん、気弱男から凶暴に変貌する社本を演ずる吹越満の二人が作る緊張感。
その二人の、妙に色っぽい妻たち。
村田の妻役の黒沢あすかがいい。彼女の毒とも薬とも言える魅力的な肉体が、スクリーンの中で効果的に泳ぐ。彼女の肉体の存在感が、この映画のエログロさに大きく貢献していて、彼女の色気がなかったら、風呂場の死体処理シーンも単にグログロで終わっていたでしょう。

グロい映像が苦手な方にはお勧めできませんが、題材は深いです。
ボタンの掛け違い、小さな偶然の積み重ね。。。。本当にそれだけかもしれないのです、我々が平常な世界に留まっていられるのか、線を超えてしまうのかの違いって。
映画の最後の方で出てくるセリフ、「人生って痛いんだよ」ってのがある。希望ではなく絶望を描いた映画。ある人にとって人生は希望に溢れてるかもしれないけど、絶望だらけの人生だってあるわけで。決して、無関心になれない事実です。



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