ワルシャワ・ワルシャワゲットー

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 30.2016 ポーランド
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ワルシャワと聞いて一番最初に思い浮かぶのは、第二次世界大戦時にナチスによって作られた最大規模のワルシャワゲットー(ユダヤ人隔離地域)であり、その悲劇。 
戦前、ヨーロッパ中で最も多くのユダヤ人が暮らす国だったポーランド。その数330万人。その多くがワルシャワに住んでいた。

なぜポーランドにここまで多かったかというのは、ヨーロッパの中でポーランドが一番ユダヤ人にとって住みやすい国だったから。
迫害や差別を繰り返されてきたユダヤ人たちは、自分たちを受け入れてくれる土地を目指す。ユダヤ人だからというだけで不当な税金を課さない、定住する土地を与えてくれる、商売をさせてくれる、ユダヤ人をその国民と同等に扱ってくれる政治家、思想家、芸術家、住民が、ポーランドに多かったからである。
「ユダヤ人を平等に受け入れる」というのは、かつてのヨーロッパの主流から行くと大きく外れていて、ポーランド人の懐の深さを物語っている(ただポーランドという国は、農民にとっては住みにくかったらしいけれど)。
こういうポーランドの国民性も、戦争戦後で大きく被害を被る一因につながったような気がしてならない。ソ連からも利用され、ドイツからはこてんぱんにやられる。そしてユダヤ人が生き抜くために身につけてきた狡猾さのようなものも、ポーランド人気質にはないのだと思う。


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ノジークシナゴーグ。ワルシャワのゲットー内で、唯一残った貴重なシナゴーグ。
かつては400あったワルシャワ市内のシナゴーグは、戦中戦後で馬小屋になったりした後、すべて破壊された。

私はワルシャワの宿を決めるとき、元ワルシャワゲットー内に滞在したいと思って探していた。元ゲットーは、旧市街の外の大きな位置を占めており、意外と簡単に見つかるかと思っていた。
が、なかなかいいのが見つからず、ゲットーと一般地域のちょうど境目に位置するところに滞在した。

このシナゴーグは、私が滞在したアパートのすぐ側。
このあたり、70年前は数十万のユダヤ人たちがひしめきあって暮らす地域だったのだなあ、と。


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シナゴーグ内。現役シナゴーグで中には帽子かぶって髭生やした正統派ユダヤ教徒たちが出入り。
歴史的な場所なので、公開されている。ビジターはそれほどいなかったけれど、すべてユダヤ人でしたね。ヨーロッパやアメリカから来ていると思われる。
入口で受付のおじさんが、「はい、ドイツ語の説明書もあります」みたいなことをポーランド語で私に言って、ドイツ語版をくれた。あのー、そこに英語版もあるじゃないですかー。、、、、面白いな、おじさん。
ドイツ語版がメインで置いてあるってことは、ドイツ人の訪問者もかなり多いってこと。それもすごいよね。ドイツ人って自国の歴史を猛烈に反省するっていうけれど、このワルシャワに足を踏み入れるって、我々が想像するよりもきついことだと思う。しかも、ポーランド人は今でもドイツ人嫌いだし(笑)



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今でも残っているゲットーの壁。
市内広範囲に居住するユダヤ人たちを、指定したゲットー内に最初に移動させ、それから壁を作っていった。
(映画「戦場のピアニスト」にもその様子は描かれている。この映画のことは、また別記事で書こうと思う。)
分断、遮断、隔離を意味する壁って、見るだけで悲しい。

このゲットー壁を探していて、住所通りに行っても見つからない。わからないから、英語が話せそうな(年配者はロシア語世代なので、英語話さない)若いお兄さん(カフェのテラスでスープを食べていた)に聞いた。「住所はここだけど、入口は●●通りって書いてあるよ。●●通りは一本向こうの道だから」と、親切に教えてくれた。お兄さんの言う通り一本向こうの道に行ったが、やはり見つからない。しばらくウロウロしていたら、お兄さんが走ってきて、「ごめんなさい!一本逆の方向の道だった」と。真っ赤な顔して謝るお兄さん。このお兄さん、背が高くてとても二枚目でした。後で考えると、見た目からして彼はドイツ人だったのかもなあ。
ともあれ、外国人にせよポーランド人にせよ、ポーランドの人はとても親切で、このようなことはしょっちゅうあった。

例えば、ナチスドイツの時代に生まれて、ドイツ人から嫌なことばかりされたとしよう。
だけどただ一人でも親切なドイツ人に出会ったら、ドイツ人全体をひっくるめて否定はできない。その親切な人のことも「彼はドイツ人だから同じだ」として、嫌いにはなれるものではない。
国と国はシンプルに敵味方として戦争するが、民間人の戦争体験はもっと複雑なのだ。一緒に遊んだ幼馴染が敵になる。同僚が敵になる。
ユダヤ人の雇用主の元で働いていて家族を養っていたドイツ系ポーランド人だって多い。ドイツ系、ユダヤ系、そしてポーランド人、戦争によって立場や関係が変わる。
ポーランドは前述したような気質柄、ドイツ系もユダヤ系も自分たちを「ポーランド人」だというアイデンティティを持って生活していた人たちが多い。ユダヤ人は特にどこに行っても(ホロコースト以後、さらにかもしれないが)、「自分はユダヤ人」という認識を持って生活している人が多い。だが、ポーランドのユダヤ系は違ったという。
イディッシュ語やヘブライ語で話さず、ポーランド語で手記を残しているユダヤ人たちも多いのが博物館に行くとわかる。ポーランド人であるという自意識の強さの表れ。
前回のブログで書いたチョコレート屋のヴェーデルも、ドイツ系でありながら「ポーランド人」というアイデンティティを持った人だったという。
そんな「ポーランド人たち」が、戦争でいきなり、自分の中に流れる血によって区別されてしまうのだ。運命も何もかも。常日頃、自分は●●系というアイデンティティを持ちながら生活してきた人たちに比べて、「ポーランド人」だと信じて生きてきた人たちは特に、二重に、打撃である。

アイデンティティの持ち方だが、居住する土地(国や住民)が、ありとあらゆる民族を平等に扱う国こそ、住民の民族アイデンティティは薄れていく。すなわち、当時のポーランドはドイツ系もユダヤ系もポーランド人と同じように生活していたため、彼らのアイデンティティは「ポーランド人」となる。そう思えるのである。
例えばアメリカでも、育った環境で有色人種でも「黒人だから」「ヒスパニックだから」という理由での非差別経験を持たない人は、黒人だ、ヒスパニックだというアイデンティティが薄れ、単に「アメリカ人」となる。
違いや差別や不公平を日頃体験している者こそ、民族や人種アイデンティティは強い。

ポーランドは、アクの強い(笑)ユダヤ人が同化できるほど、同等に受け入れていたということ。
このことが皮肉にも、前代未聞な悲劇を生む土地となる歴史の舞台の原因になってしまうのだけれど。


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ゲットーの壁がある場所は、戦後できた社会主義的公団住宅の中に今はある。
社会主義団地の特徴の一つは、部屋が向かい合って作られている。隣人の何かあやしい動きがあったら密告するよう奨励されていたという、監視社会向きの造り。

この建物、かつてあった同潤会の上野下アパートを彷彿させて胸にギュンときた。
2013年に解体された上野下アパート。その数年前に中に入る機会を得て、貴重な体験をした。あの時入れてくれたおじさん、今はもう亡くなっているかもしれない。
旅の間は、いろんなことを思い出す。


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別の場所にあるゲットーの壁。
「1940年から1942年の間、この通りはこのゲットーの壁により分かれておりました」と表記があった。
ワルシャワゲットーには、ピーク時に45万人のユダヤ人が暮らしていた。
しかしその後、ゲットーのユダヤ人を絶滅収容所に送り殺害するというナチスの移送作戦が始まり、抵抗運動が始まる頃には7万人になっていた。
この移送作戦が始まった1942年、最初の7月22日から9月10日の僅か一ヶ月半で、ワルシャワゲットーにいた30万人がガス室で殺害された。
要するに、1942年が終わる頃にはゲットーのユダヤ人の大半はいなくなっていたのだ。



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元ゲットー敷地内にある、ポーランド・ユダヤ人歴史博物館。
ユダヤ人の文化や宗教など基本的なことから、彼らがどのようにしてポーランドに移民してきたかが詳しく展示されている。
ポーランドのユダヤ人歴史だけでも、10世紀から現代まで8つのテーマに分かれており、じっくり見ると数時間では足りない。だがこの博物館をじっくり見るだけで、ユダヤの歴史を知らない人も、ホロコーストを知らない人も、一通り全部学べるだろう。


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博物館前にある、ゲットー英雄記念碑。
中心に描かれた人物は、モルデハイ・アニエレヴィッツ。ワルシャワゲットー蜂起を指揮した人物。ユダヤ人戦闘組織の司令官を務めたポーランド系ユダヤ人。
24歳でドイツ軍に攻撃され、命を落とす。

最初は、「労働キャンプ」に移送されると信じていたゲットーのユダヤ人たち。だが死の収容所だということを知った彼らが、綿密な計画で武装集団を作ったのだ。このワルシャワゲットー蜂起は1943年の4月から5月。
反乱を起こしたユダヤ人たちは粘り強く戦ったが、最終的には完全に鎮圧される。鎮圧後、ワルシャワ・ゲットーの住民はSSによって捕えられ、トレブリンカ、マイダネク、あるいは強制労働収容所へと移送され、ワルシャワ・ゲットーは解体となる。

私が20代前半の頃旅したタイで、バンコクからチェンマイに行く夜行バスの中でアリエルというイスラエルのユダヤ人の男の子に会った。優しい目をした二枚目の、とても感じのいい知的な青年だった。
彼とはその後仲良くなり、チェンマイで一緒にご飯を食べたり、ナイトマーケットを歩いたり、彼が運転するバイクで少数民族の村に行ったりした。
ちょうど私が大学の英文学で、ユダヤ系アメリカ人の小説を読んでいたことから話も盛り上がり、彼とはアメリカのユダヤ系アーティスト、ボブ・ディランとかポール・サイモンについても語ったなあ。
アリエルは他のイスラエル人旅行者と同じように、2年間の兵役義務を終えて大学に戻る前に、世界を回る長旅をしているところだった。

彼に戦争について質問したことがある。兵役義務を一体どのように捉えて彼らは受け入れているのか。
「基本的に、違う意見は、話し合いで解決するべきだと思う。話し合って、話し合って、何度も繰り返し話し合うこと。話し合うことが一番。話し合って解決できることは幸せ」
「だけど、どうしても平行線で意見が合わない時がある。相手が手を出してきた時には、こちらも手を出す。忍耐にも限界があり、手を出さないといけない時もある」
20歳をちょっと超えたくらいのアリエルは、このようなことも言っていた。
「理想と現実は違うのさ」とでも言っているような、一ユダヤ人若者の静かだけども確固とした意見に、彼らの歴史を垣間見た気がしたものだ。ちなみにアリエルの家族は、ドイツからイスラエルに逃れてきた人たち。ホロコーストの歴史を背負わないイスラエル人はいない。
「ゲットー蜂起」のユダヤ人たちの心情を考えたとき、アリエルの言葉を思い出す。

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博物館にある展示の一つ。
前述した、1942年の7月22日から始まったという「移送作戦」の記録。
ゲットーから収容所へ送られたユダヤ人の数が、7月22日から記録されている。毎日6000とか7000とかの人々が、ゲットーからいなくなり殺害された。


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これはゲットーの地図。
もっと詳しいゲットーマップがあり、私はそのゲットーウォールに沿って、ワルシャワの街を2日かけて歩いた。
ゲットーと言っても広い。なんせ45万人が積み込まれていた場所だのだから。45万人が住むには非常に小さなエリアだ。


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博物館を出て、元ゲットーに沿って歩いてみる。
今では、元ゲットーのあった場所も、ゲットーの外も、風景は同じ。
戦後何十年かの間に、その境目はなくなり、ワルシャワはソビエト的社会主義都市として開発された。


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これは元ゲットーの建物。今は廃墟。
現存するゲットーの建物はそんなにないので、貴重。


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これは私が滞在したアパートのすぐ裏にあった元ゲットーの建物。
現在、修復に向けて工事中。


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この壁にも銃弾の穴。


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穴、穴、穴。。。。


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このゲットービル内にオープンしたカフェ。歴史を残しながら建物の再活用。
ゲットー蜂起の後、ドイツ軍にワルシャワゲットーは壊滅状態にされたので、一部でも過去の事実が残ることは、ワルシャワの街に必要。


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「コルチャック先生」でおなじみの、ヤヌシュ・コルチャックが開いていた、ユダヤ人孤児のための孤児院、ドムシエロ。今でも建物は当時と変わらず。

コルチャックは、裕福なユダヤ人家庭に生まれたユダヤ系ポーランド人。
彼も、ポーランドに同化した「ポーランド人」としての意識しかないユダヤ系であったが、反ユダヤの風潮とともに自分の出自を意識始める。
彼と孤児らは戦時中にゲットーへ強制移動させられ、その後ゲットーからトレブリンカ収容所へ移送され、コルチャックも子供達200人と一緒に殺害される。

アンジェイ・ワイダの「コルチャック先生」、昔観たけどいい映画だったなあ。


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ワルシャワ市内を走っているトラム。このトラムに乗ってしまえば移動も簡単だが、ゲットーは歩かないと意味がない。
コルチャック先生が子供達と駅まで歩いた道だって、自分の足で歩きたい。

ゲットーマップ片手に観光地から離れた場所を歩いているものだから、迷っている人に見えたのだろう。
後ろから、「何かお探しですか?」と声がかかった。振り向くと、金髪の若い綺麗な男の子。
こちらが何かを聞いて答えてくれるのも親切だが、向こうからこのように声をかけてくれるって、かなりの親切度。他人のことをよく気にしているっていう証拠。余裕がないとできません。感動です。しかも、高校生か大学生くらいの若さでした。分かりやすい、綺麗な英語でした。

このように、「何かお探しですか?」というように、向こうから声をかけてくれるってことが、何度かポーランドであった。素敵なこと。


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たどり着いたのはユダヤ人墓地。草ぼうぼう。


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街の西にある大きな墓地で、カトリック墓地も一緒にあるが、大きく分かれている。
あまりの荒れ方にショック。


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ホロコーストで亡くなった人たちのための墓地。
彼らは遺体もないし、死亡した日付もわからない。


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戦前、このワルシャワに45万人住んでいたユダヤ人。
3人に一人がユダヤ人だった。かなりの人口。
その彼らが収容所に送られ殺され、ほとんどいなくなった。ホロコーストの生存者たちは、アメリカやイスラエルへ移住。
廃墟になったワルシャワに戻ってくるユダヤ人は、それほど多くなかった。

何世代とこのワルシャワに住み続けたユダヤ人の子孫が、先祖の墓を守れない事情がある。


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ユダヤの話なので、ユダヤ料理のレストランに行った時のことを。
これは新市街にある、Pod Samsonemという店。
コーシャー料理は好きである。たまに食べたくなる。

ここに行ったのは土曜日。曜日を考えていなかった。
入ると、「テーブル席は全部予約入ってるから、カウンターしかない」と言われ、カウンターに座る。
そうだ、土曜日は彼らの安息日。ユダヤ人は土曜日は労働をしないため、料理を作らない。だから、レストランで家族や友達と集うこと多し。


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このレストランや他の店でも学んだのだが、ポーランドのユダヤ料理は、かなりポーランド料理とミックスされていて、アメリカのコーシャーとはちょっと違う。
この点からも、いかにこの国のユダヤ人たちがポーランド文化に根付いていたことがよくわかる。というのは、普通コーシャーレストランというと基本的にユダヤ人しか行かないような雰囲気だけれど、昔からこの国はそうではなかったんだろうな。調理法はコーシャーだけど、料理はポーランド人も楽しめる料理を出す。それは、ユダヤ人がこの国で生きて行く術だったのかもしれない。

マッツォボールスープがあるかと思ったら、そんなコーシャー代表的なものさえメニューにないのでビックリ。
だから、ポーランド料理のジュレックというライ麦のスープを注文。中に、ポーランド人が大好きな(笑)ゆで卵が入っている。


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グリルしたニジマス。ポテトサラダ。
キャベツの酢漬けが美味しかった。


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この後、この準備されたテーブルに、ユダヤ人団体がやってきた。一人、カトリックのシスターが混ざっていて面白かった。



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これも、一応「コーシャー」と名乗っている、今風のオサレなカフェレストランにて。
私の滞在するアパートの目前にあり、そこがコーシャーだとは後で気づいた。

これはユダヤ料理のブリンツ。パンケーキ。
今までいろんなブリンツを食べてきたけれど、こんなに洗練されたオサレなブリンツは初めてだ。まさかワルシャワで口にできるとは。
上等なマスカルポーネチーズを使ってあります。そして食用の乾燥花びら散らし!(笑)
見た目は、乙女心をキュンと言わせますね。味も最高でした。


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ここのパンはどれもこれも美味しそうで、できれば片っ端からパンだけを毎日食べてみたかった。
オープンキッチンで、強面のお兄さんが生地をコネコネやっていた。


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中の雰囲気こんな感じ。シェアする大テーブルがどんと。
見た目、アメリカっぽいでしょ。ポーランドっぽくないよね(笑) でもこれが、新世代のポーランドなのであります。



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