「沈黙 -サイレンス」

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 07.2017 映画よもやま話
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マーティン・スコセッシが遠藤周作の「沈黙」を映画化すると言ってから一体何十年の月日が。。。。  15年ほど前に「ようやく」と言った噂が流れ、楽しみに楽しみにしていたのに、彼はなかなか撮り始めない。あれやこれやいろんな大作を手がけるが、「沈黙」の話はもう消えて流れてしまったのかと思っていた。
忘れていた頃に撮影開始していたのね。。。いきなり公開されてビックリしました(笑)
あまりに昔期待していたもので、もう期待もしないで観たのだけれど、ズドンときた。素晴らしい小説を「ほぼ」忠実に、しかもダイナミックな作品に仕上げられていた。

日本が舞台といえども、キリスト教の歴史ものなので、一般の日本人にはきっとわかりにくい題材だとは思う。
私の先祖は長崎に所縁もないしそこの隠れキリシタンでもないが、代々続くカトリック一族の家庭で生まれ幼児洗礼を受け、一般の日本人とはちょっと違う環境の中で育った。
しかも作者の遠藤周作氏一家は、我が家が数十年席を置いていた東京郊外のカトリック教会での同じ信者同士でもあった。そんなわけでこの作品にはより親しみもある。非常に同感する。彼の一連のカトリック作品には感動する。
それ自体、敬虔なカトリック信者や教会関係者から見れば「異端」なのかもしれぬ。私は「中から」見つめてきた経験上、「彼ら」の偽善な部分も綺麗ごとも冷ややかな目で見てきた部分もある。全部は否定しない。否定できるのなら、とっくに私はこの宗教を捨てていたと思うから。「彼ら」とは聖職者、あるいは聖職者を目指している者たちであり、そう、もちろん全員が全員私の「冷ややかな目」の対象になったわけではないことは断っておく。

この作品は、棄教が一つのテーマだ。
その一方、いかなる非道な拷問にも屈せず、殉教していく聖職者や信徒たちの力強い不屈の精神も描かれている。
そしてイエスの沈黙。

踏み絵をして表向き棄教しておきながら心の中では信仰心を捨てきれず、ふらふらとさまよいながら卑屈に生きるキチジローが大事な役目を果たしている。
狡そうな目をし、忍耐などから程遠い、弱虫のキチジロー。家族を、村人を、そして司祭までをも売り渡して生き続ける男。
キチジローは弱いので、命が欲しくて踏み絵をするが、裏切るたびに傷ついている。家族を焼かれ、村八分にされ、行くあてもない。だけど図々しくも生き延びる。ロドリゴ司祭を見れば「パードレ」と歩み寄り告解をこう。裏切るたびにどこかに消えるキチジローだが、ひょっこり司祭の前に現れるのも彼だ。司祭は彼を憎く思うが、彼を捨ててはいけないことと葛藤する。
キチジローを最初から、どこか侮蔑し信じきれない、そんなロドリゴが、司祭でありながら未な人間に描かれているところもこの小説の凄さだ。
遠藤周作も、マーティン・スコセッシも、自分に近いのはキチジローだと言っている。
イタリア系移民の家に生まれ、マフィアが牛耳る移民社会における暴力を目の当たりにしながら、一時はカトリックの司祭を目指していたスコセッシ。カトリックの洗礼を受けながら、最後まで日本人としてカトリック信者であることに違和感を抱いていた遠藤周作。

映画は、雲仙地獄での拷問シーンから始まる。潜伏司祭たちを拷問にかけるが、殺さない。棄教目的だからだ。
指導者を殺すと、信者たちの結束はさらに固くなるからだ。
この修道者たちは、極東の国に「正」を教えにやってきた。彼らの信じる「正」。
日本にキリスト教は必要ない、とする側には一理ある。そもそも、日本にはすでに仏教という素晴らしい宗教が根付いていて、その文化や伝統をヨーロッパ人が持ち込む宗教で絶やす権利などないのだ。ヨーロッパは、ヨーロッパの宗教は、世界でこの上なく正しいと、「無知で」「未開な」日本を助けようとするおこがましさ。お節介。
当時の日本の修道者たちには、それに気付いている人などいない。熱い使命感と「絶対」を持って日本にやってきていた。

島原の乱以降のキリスト教弾圧。信徒の虐殺。
「正」をもたらしたはずのキリスト教が、それを信じる人たちが犬死する原因を作っている。
司祭たちが粘れば粘るほど、大きくなる信徒たちの犠牲。でも棄教してしまえば、生まれてから今まで信じてきた信仰は一体なんだったのか。神を否定することなどできない。司祭の宗教者としての葛藤。
試練を繰り返しても、目の前で信者たちが虐殺されようとも、神は沈黙したままだ。答えはどこに?
結局、「日本で最後の司祭、ロドリゴ」も棄教してしまう。

遠藤周作の「沈黙」は発売当時、日本のカトリック社会の中で物議を醸した。
踏み絵のシーン、司祭の棄教などに問題があると、長崎では禁書に近い扱いも受けた。
しかしこれは事実に基づいた小説であり、こういう事実を認めたくないカトリックの体質というものの方が問題がある。
棄教者は教会にとっては腐った林檎。語りたくない存在。歴史から葬ってしまおう。。。。
「弱者」たちは黙殺され、忘れ去られた。だが、彼らは我々と同じ人間であり、司祭だからと言って神ではない。彼らの動機、心理、棄教に至った経緯など、そこに人間の真理が隠れているとも言えよう。自分が生涯信じていたものを捨てる時、一体どういう涙を流すのか。屈辱なのか解放なのか。それを想像せずに忘れ去ることだけに重きを置いてきたならば、それこそカトリック界の恥じゃないのか。
「沈黙」には、やむを得なく棄教をした者への、教団や社会や歴史家の彼らへの「沈黙」の意味も含まれている。忘れ去られた事実を紐解いて書くのは小説家の仕事に他ならない。

遠藤周作が亡くなるまでい抱いていた、日本人なのにカトリック信者であることに対する違和感。
私は違和感というよりも子供の頃は、自分はどこに位置すればよいのか問答していた。宗教心に薄いと言われる日本人の生活が、いかに宗教色の濃いものに彩られているか。。。お正月のお参り、お盆、法事。。。  そのどれとも縁もなく、それがどういうものなのかも知らずに育つ日本人の私。
父の本棚にあった「死海のほとり」。敬虔なカトリックの家庭で育ち、若い頃に信仰につまづいた経験のある父が、どういう思いでこの本を読んだのか。きっと同じように悩める日本人は、遠藤周作の一連の作品に救われ続けてきたのかもしれない。そして私も再度、沈黙の映画化で再度、その潔い切り口で救われる。
マーティン・スコセッシがこの作品を撮りたいと長年強く思っていたことに興味があった。
このとても日本的な、特異なキリスト教史。カトリックのスコセッシが個人的な興味を持つことは大いにわかる、が、ビジネスとして映画にするならば興業的なものが大切で、果たしてこの題材が多くのアメリカ人、世界中の日本人以外に観てもらえるのか、という点。
ところが映画の最後に、「For the Japanese Christians and their pastors」と出る。はっきりと、日本のキリスト教徒とその司祭(牧師)たちへ捧げられている。普遍的なテーマとはいえ、スコセッシが感動し捧げている矛先は、ただ一つなのだ。

若い時から活躍している映画監督は、死ぬまでに一本、晩年に、自分の出自や経験が軸になる名作を撮ることが多い。
ルイ・マル監督の「さよなら子供たち」や、ロマン・ポランスキーの「戦場のピアニスト」など、「これは絶対に撮らないといけない」と暖めて数十年。それはどれも、とても個人的な経験の一コマである。だが人生を大きく左右する、忘れようとしても忘れられない、自分の人格の軸になる出来事だったりする。スコセッシにとっての「沈黙」は、その一本に違いない。自分にとって大切な題材だけに簡単に撮れない。大事に撮りたい。失敗したくない。もうちょっと人間(自分)が熟してから撮ろう、と思っていると晩年になる。これ、20年前に作られていたら、同じスコセッシ監督でも全然違ったものになったと思う。50代と70代じゃ、物の見方が全然違うだろう。円熟した人間が撮った1本。間違いなく名作。
遠藤周作氏も喜んでいるはず。


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