「友達」の定義

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 14.2017 人いろいろ/人間
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「友達」の定義は人それぞれある。この定義がそれぞれ違うものだから、同じ日本人同士で同じ単語を使っていても、会話で誤解を生んだり、相手の言うことが分からなかったりすることがよくあるのだ。

私の「友達の定義」。
まず、ご飯を一緒に食べたことがない人は友達とは呼ばない。打ち合わせとか仕事がらみではなく全くのプライベートで、二人で何度か食事に行ったことのある間柄は友達だろう。
友達とは基本サシで話が色々進む人。私は気の合う人とは二人きりで話をすることを好む。多くても3人まで。4人以上はパーティだ。
パーティというのは社交とか付き合いで、社会生活には必要なことだろうが、そこにいる誰かさんたちは「知っている人」かもしれないが、友達ではない。
同じパーティでも、そこにいる人たちそれぞれと、二人きりで何処かに行ったり食事をしたことがある人たちで、そんな彼らがたくさん集まった場であるならそれは最高だ。二人や三人の時間とはまた違う濃い時間が流れる。
4人以上のグループで「しか」食事したことのない人は、友達ではなく「友人」である。私は、「友達」と「友人」を区別しており、「友達」は親しい相手、「友人」とは友達の友達を含めた、「知人」よりはプライベートのおつきあいのある人たち。

サシで何度か食事に行ったことのある相手。一度や二度でなく、何度か。それは楽しいから「また会おう」ということなわけで、一緒に食事すると美味しいから何度も会うわけで、何度あっても話が楽しく尽きない人というのは友達なのだ。私にとってはこれ大事。
だから、「友達」と呼べる人はそうたくさん入るわけではない。たくさん欲しいとも思わない。たくさんいないからこそ、「友達」という言葉も大切に使う。大切に使いたい。
「彼氏」という言葉を自分の恋人にだけ使うように、「友達」と「ただ知り合った人」を同じにしては「友達」に失礼だもの。

「誰それと友達になった」という言い回しを使う人がいるのだけれど、これがよく分からない。こういう風に言ったことがないから聞くたびに違和感を覚える。
「友達になった」をよく使う人は、「誰それとお友達になりたい」とよく願う人なのだろう。友達が欲しい。あの人とお友達になりたい。だからその人と話ができたり、その人に自分を知ってもらえると、「友達になった」と言うのだろう。申し訳ないが、なんだか気持ち悪い。だって、「友達」って「結果の状態」だと私は思うから。誰かさんと知り合って、話が合うからよく食べに行って、楽しかったからまた会って、そんなことがしょっちゅうある時もあれば、頻繁でなくても定期的になんだかんだと続いて、やりとりして、気づけば何年もそんなことしている。そんな時、その人は「友達なんだな」って思う。知り合って時間を一緒に過ごし始めた当初から、「この人と友達になった」なんて思わないのである。

とある人が、「●●で一緒になった▲くんと、友達になったんだー」って言っていて、私はその時自分の定義で考えていたから、「へえー、そんなに短期間で誰かと友達になれるんだー」って感心したことがある。すごい超特急で二人で飲みに行ったり、悩みを打ち明ける仲になったんだなあ、って。
よく聞いたら、「ジムみたいなところでよく顔をあわせるから話すようになった」程度のことらしい。それは私にとっては、「友達」ではなく「知人」である。友人でもない。
人それぞれ「友達の定義」があるからいいのだけれど、このようにやり取りで取り違えることがあるから、ややこしいとは言える。「友達」の意味の範囲が広い人もいれば、私のように使い分けてとても狭い人もいる。

このようにいろんな定義の人間が混在する世の中だから、時々勘違いされる。
私が「知人」と思っている相手が、私のことを「友達」と思っている時。
「知人」に「友達」呼ばわりされた時は、かなり戸惑う。一度しか会ってないし。。。。しかも大勢で食事しただけだし。。。みたいな。

「友達がたくさんいる」って人は、すごく「友達」の垣根が低い人なのだろう。したがって、私は「友達」と呼べる人は少ない。少ないけれど、彼らは本当に友達だ。
私は友達が多いよね、と人によく言われる。多そうに見えるらしい。それは違う。多いのは「知人」や「友人」なのだ。

「友達って少なくていいよね」「友達ってあまり必要ないよね」と言う人とは気が合ったりする。価値観が同じだな、と。少なくとも、「友達が欲しい」「誰それと友達になりたい」と喘いでいる寂しい人間よりは、ずっと仲良くなれる。
「私は友達が多くて幸せだー」と叫んでいる人間ほど、深い付き合いは少ないはずだ。そうだ。私のことを勝手に「友達」と呼んでいた人が、「私は友達が多くて幸せだー」と言っていた人だった。

「友達になれる」というのは、「友達になろう」って目的を持って成し遂げるものではなくて、「結果」なのですよ。人間関係は、結果。
表向きだけの関係を狙う人は、「お友達」の数は増えど、中身の薄い関係しか築けない。友達を欲しがる人は、自信がないのかもしれない。自信があれば、自分が興味を持てる人と、その相手が自分に興味を持ってくれる度合いが同じになる。そうなれば、自ら「欲しい」と思わなくても、知らないうちにその人と友達になっているものだ。恋愛と同じで、一方的に「友達」と思っていても、向こうも思ってくれなきゃ関係は成り立たない。両思いでこそ、友達。

「友達」と呼べる人間、人生で数人でもいいと思う。「数人の本物」がいれば、「数百人の偽物」なんかを持つよりずっと幸せだ。


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恋人と友達(2)

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 14.2017 人いろいろ/人間
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私の場合、ほとんど経験のないことなのだが。恋人と別れてからも職場などで顔を合わせなくてはいけない関係というのがある。
共有の友達が多くて、破局後も皆で会う時にはそこにいたり、とか。

ほとんどないが、ないことはない。そうした場合はどうするか。極力避けるか、あるいは過去のことなど忘れたかのようにただの友達の顔をして笑顔で話すしかない。そんなことをしているうちに、本当になんとも感じなくなり、本当に何もなかったかのようになっていく。いつまでも覚えているのは、男の方だ。

相手が恋人だった時と、そうでなくなった時の差は数あれど、気にかけることがだんだん少なくなっていくので、まず心配しなくなる。
これが一番大きいかもしれない。
恋人というのは何かと心配なのだ。体の調子を含め、仕事が忙しいから大丈夫かな、とか。無理をしそうなものなら、私は本気で怒ったりする。本気で怒る行為。。。。これは相手のことが好きだからできること。恋人は自分の生活の一部なのだから。
別れると、これがなくなる。相手が何をしようが気にしなくなった時に、ああもう気にかけていないんだな、と気づく。無理をしようが体を壊そうが、それはその人の人生。
ちょっとした行き違いでも口喧嘩する。どうしてそうなのかなあ、とか。それは相手に期待があるからだ。おかしいところは口に出して言っちゃう。それは相手のことを思うあまり。
ただの友達だと、それはない。そこまでコミットしないし。おかしいところがあっても、私には何ら影響のあることではないし。おかしいところがあっても、そこを無視して付き合えるのが友達でもある。

恋人には、たやすく「頑張ってね」とか言わない。
でも、関係ない人には「頑張ってください」って気軽に言う。
「頑張って」って、本当に無責任な言葉だと思うから。でも、世間一般的には悪い言葉とはされていないから。「お元気で」みたいなもん。
相手に「頑張ってね」と言える時、もうそれは距離が大分あることを示している。

叱り叱られる間柄。これが一番近い関係と言えるのかも。
「適度な距離感」と言うのは人間関係で失礼にならない距離感のことで、これは決して親しさを表しはしない。
人は歳を重ねるほどに、叱られる回数が少なくなっていく。いつまでも叱られるのは嫌だけれど、少なくとも人生の半分くらいまでは誰かしらに叱られてもいいのではないか、と思う。
叱ってくれる友達がいる人はとても幸せなことだ。それだけその友達は、近い存在であると言うこと。
恋人に叱ってもらえるのならば、それも幸せなことだ。それだけ想われているってこと。
叱ることは愛情表現なのだから。

誰かのことが心配になる時、それは恋をしている証拠でもある。
そして好きだった人のことを心配しなくなった時、それは冷めた証拠でもある。

ずーっと自分のことを心配してくれる相手というのは、親兄弟とか配偶者だけなのだろう。
恋人というのは、それに比べるとやはり儚い関係性なのかもしれない。恋人から配偶者に変わる時、それは何かが変わる。責任感、色々。結婚で失うものも多々あるが、確実に育むこともできる。何を選ぶかは人それぞれ。それぞれに、良し悪しあり。

話は少しずれるが、子供を作る、すなわち男にも女にも親になるという選択がある。一度親になったら、放棄できない重い選択。
親になるということは、親にならない選択をすることよりも得るものが大きいということはない。
親になった人が得たものは親にならなかった人にはないが、親になった人が得られなかったものを親にならなかった人は持っている。
それは、人の親でない大人と、人の親である大人が話すとよくわかる。お互いにあるもの、ないもの。
親になるにもならないにも代償がつきもの。それをわかった上で自分の選択を生きることが人生。
親になった人が子供のいない人を羨むことも馬鹿馬鹿しいし、子供のいない人が親になった人の方が何かを得ていると感じるのも馬鹿馬鹿しい。
親の子供に対する責任感はそれはそれは重い。だが、子のない人がその責任感とエネルギーを他のことに向けているとしたら、それは非常にでかい。

恋人、友達、配偶者、親子。。。。 それぞれの人間関係。
全てが大事で全てが違う。


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恋人と友達(1)

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 14.2017 人いろいろ/人間
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友達と恋人というのは関係性が全く違うので、どちらが上でも下でもない。
「友達から恋人になった」というのは、決して友達の関係から「昇格」して恋人同士になるわけではない。どうも、「友達よりも一歩上」の関係へ進んだと、人は勘違いしてしまうものなのだが。ただ、「全く別の人間関係」に移行しただけのこと。

実際、友達には話せないが恋人には話せることがあるように、恋人には絶対に話せないが、友達になら話せることがある。恋人の方が友達より「より近い」「より親しい」と思ってしまうのは、肉体関係を結ぶからなのだろう。ただそれだけで、恋人同士の方が「より親しい」ってことではない。

人間同士なので、関係には終わりがある。友達にも恋人にも。
よりハッキリと「別れ」があるのは恋人関係の方だ。なぜなら、恋人関係には友達関係よりも依存や期待するものがあり、それゆえに嫉妬や忍耐や限界などというものが生まれてきて厄介なことになる。特別な愛情があったからこそ「冷めてしまう」のである。盲目になるからこそ、見えてしまった時に幻滅し、嫌悪感さえ抱く。
友達関係ではそれは少ないが、男同士の友情などは女のそれよりももっと密な場合が多いので、期待も甘えも依存ももっと激しい。だからこそ「裏切られた」と思うことも多い。だから絶交もあり得る。
友達と絶交を経験したことのある人は、それは濃い友情関係を持っていた、ということ。殴り合えたり絶交したりできる友達は、別れがあろうが人生では貴重な存在だろう。
女には男ほどの友情はないので、期待も依存もしないし、相手を嫌いになる程近づきもしない。女友達に殴ってやりたいほど腹をたてることもない。

「絶交」を除いて、恋人関係には終止符があるが、友達関係にはハッキリした終止符がない。
かつてすごく仲がよかったのに、もう連絡も取れずにいる人のことは「昔いた友達」となる。「別れたんだけどね」とはならない。
かつて一緒に過ごした友達で、長年会ってはいないけれど、なんだかでやりとりしている友達は、まだ「友達」である。でも友達は、いつフェードアウトするかわからない。お互いに「どうしてるかな?」と思わないと、友達関係は続かない。

友達と違うのは、ハッキリと期間があるのが恋人でもある。
「去年の秋まで付き合ってたんだけどね」と言えるのは恋人で、友達関係にそういう表現はない。
恋人関係が終わって、その後「友達になる」というのは普通ない。もう会いたくない、あるいは会わない方がいい、と思って理由があって別れるのだから、友達として関係を続けるというのは普通はない。
男に未練が残っていてどうしようもない時に、女というのは「じゃあお友達でいましょうね」「お友達ならいいわ」と優しい言葉をかけてしまうことが多々ある。相手を慰めたり諦めてもらいたい気持ちで言っているのだが、これは男には通じない。若い女に犯しやすい間違いである。女にとってその時の「お友達でいましょう」というのは、「もうあなたに男性的魅力は感じません」「男として見ておりません」「恋は冷めたんです」の同意語だから。
例外があるが、実際に別れた後に友達になれる場合。それは恋人同士としての関係がとても薄かった場合のみ、だ。恋に落ちたとしてもお互い遊びだったとか、それほど深い関係にもならず、あるいは期間が超短かった時とか。男と女のドロドロした関係性を築かなかった場合のみ、友達になれちゃったりする。とてもサッパリと。

恋人と別れてから、10年20年経って友達になれることは、ある。
それは、全く会っていなかった10年20年の間に、お互いに新しい環境や人間関係が築かれていて、「他人」になっているからだ。懐かしさくらいは残っていても、未練や束縛や独占欲も持たずに目の前の相手を見て、どんなに変わっていても変わっていなくても「素敵な人だな」「面白い人だな」と思えた時に、新たに友達になれる。
それは、新しい出会いとも言ってよい。10年20年で変わらない人間などいない。その相手は自分の知っている「元恋人」ではなく、自分の知らない間にたくさんの時間を過ごしてきた人間なのだ。素敵に人生経験を積んだ相手に対しては、元恋人だろうが初めて会った人だろうが、改めて「お知り合いになりたいな」と思える。

付き合っていた恋人と別れる時に、「別れた後も友達だったらいいじゃん」みたいなことを言われたことがある。彼の言いたいことは、「何かしらで繋がっていよう」みたいなことだと思う。
「はあ?」と思った。私にとっては「繋がっている」なんて全然意味のないこと。なんのために?安心感? 親子や友達関係と違って、必ずやいつか人為的な別れのある恋人関係。家族や友達は黙っていてもどこかしらにずっといてくれるものだが、恋人関係というのは始まった時から終わりに向かっている。3ケ月かもしれないし、3年かもしれない。短距離だろうが長距離だろうが、必ずゴールがある。その与えられた期間に、どれだけ燃焼できるかどうかが恋人と育む人間関係だと私は思う。
恋人というのは、別れたら簡単に赤の他人となる相手。その相手が「自分の特別」な時にどれだけ濃い時間を過ごせるか。どれだけ愛し愛されるか。どれだけ色々なものを共有して、その後のお互いの人生の血肉の一部になれるか。
ゴールの時にはそれは燃え尽きているので、「その後」なんて私には必要ない。

「友達」というのは、私にとってはレベルの高い人間関係。簡単に「友達」は作れない。
ましてや、恋人というのは盲目だの熱情だのというフィルターをくぐって成り立っていた関係でもある。盲目が覚めて目が開いた時、熱がなくなって冷静にその相手を見たとき、まだ十分に魅力的な相手であるか。深い会話ができたり、自分が影響されるくらいの能力や感情を持っている人なのか。それは疑問だったりする。
恋人同士でのイチャイチャした時間は、ごまかせる手段でもある。関係からイチャイチャを取り除いた時に、長時間飽きずに話せる相手なのか、話が面白すぎて、また会いたいと思える相手なのか。そうでないと、元恋人は「友達」にはなれないし繋がっている意味すら不明になる。

友達のままでいたならずーっと長く続いたであろう男女の人間関係も、恋人になってしまったがために短い期間で終わったりしてしまう。友達と恋人は天秤にかけられないほどの別物の関係なので、どちらがよいとは言えない。ただ、両方は手に入らない。
「ずーっと長い関係」を求めたかったのにそれが叶わぬのなら、それは恋人関係を求めた側の過ちだろう。

「繋がっている」ことに意味がないと思うのは、生きてきたその場その場の瞬間や記憶で作られた体や心の中に残るものの方がよほど貴重だと思うから。
そこで得たもの。身に染みたもの。感じたもの。五感を働かせて全身で感じた感情は、もうすでに私の体に染み付いているので、そこで完結なのだ。
「終わりのないものはない」と一番感じられるのは、あらゆる人間関係の中でも恋人関係なのだろう。

五感を働かせて全身で何かを吸収している時。それが恋している状態。そしてそれが、「終止符」に向かって走っている時の状態。
人間はそれを繰り返す。
でも愛しい行為だと思う。

それに比べると、友達というのは安心感がありますね。何かあったらそこにいてくれる。
恋人は、いつか終わる関係なので、いつかはいなくなる。安心感も期間限定。それでも友達関係では得られない甘美なものがある。
どちらを取るか。どちらも、は手に入らない、のです。


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今日の桜との会話

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 13.2017 花&植物
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近所のたった一本の桜開花からあっという間に次々に花が咲く。


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昨日、今日と、わずか20分ほどの逢瀬であるが、「元気かしらー?」と会わずにいられなくて会いに来る。


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この桜の下に誰かいたりするとガッカリする。「私の桜」のはずなのに。なんだ?この独占欲は。恋心ですね。
独り占めしたいわけ。


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この桜がうちの近所の公園に植えられた時、「なんでシカゴに桜?」と思った。それまでシカゴには桜の木などなかった。
私の住んでいる界隈には日本人もいないので、私のために植えてくれたと思わずにいられず。


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実際に、植えられた7〜8年前の当時、「あ、桜の木だ」とすぐにわかった近所の住民は私くらいのものだったと思う。
桜の花を見ていると、よく人から「これはなんの花?」と聞かれた。シカゴの人は、実際に桜を見たことがない。ワシントンの桜の映像をテレビで見て知っているくらいだ。


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植えられてからずーっと、時に咲く前からチェックを入れたりしながら、咲き始めたら連日この桜に会いに足を運ぶ熱心なファンも私くらいだと思う。
だからこの木とは、心が通い合っていると勝手に思っている。
それだけに、この枝におもちゃの縄がかけられていたり、子供が飛びついて折ったのか枝が地面に落ちていると腹立たしい。
「私の桜は無事かしら?」と、気が気でなくなる。


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そして、訪れた時にそばに誰もいないとホッとする。
あー、独占できるー。桜と思う存分会話できるー。


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ま、桜は私のことなんてなんとも思ってないんですがね。はい、桜の手のひらでコロコロ転がされております。転がっています、私。


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昨日、偉大な芸術の話に触れた。
最高レベルの芸術というのは、裏にどんな痛みや産みの苦しさや努力や迷いがあろうが、完成された作品にはそれが見えない。
「いとも簡単に生まれました」という顔をしている。
羽生くんのスケートにしても、あの美しい完璧なジャンプの裏の痛みやもがきなど絶対に見えない。簡単に跳んでいるように見える。
ゴッホの絵だって、生活の苦しみや悲しみはあれど、キャンパスの上の筆の流れには一切の迷いがない。

桜の花も、ものすごいエネルギーで咲いている。
このピンクを作り出すのも、木には負担がかかることで、そのエネルギーを冬の間ずーっと蓄えている。


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桜は、花がないと実に地味な木だ。そこがまたいい。

もし私がお城に住んでいて(笑)、大庭園にバラか桜かどちらかを植えていいというお許しをもらえたら、私は迷わず桜を選ぶだろう。 「1年に1週間しか花の期間がないじゃないか」と言われようが、絶対に桜を選ぶ。
城が和風だろうが洋風だろうが、バラではなくて桜が欲しい。

桜がもし西洋の植物だったら、何百年かけて、花をもっと持たせる品種に改良されていただろうな、と思う。「たった1週間しかこの美が持たないなんて勿体ない。品種改良せよ」とどっかの王様が命令を出す。そして、「おかげで桜の花は、1ケ月もの間、楽しめるお花になりましたとさ」

ああ、桜が日本の花でよかったー。
わびさび分かる日本の花でよかったー。
短い命の儚さや、散り際に美を感じる日本の花でよかったー。


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そんなこんなを今日は桜とお話ししてきました。


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桜は美人ちゃん

Posted by ジャンヌ(Mami Takayama) on 12.2017 花&植物
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今年は特にそう思った。桜は本物の美人ちゃんなんだなあ、と。

毎年、水仙、コブシ、木蓮の順に咲いて、そのあと桜がくる。水仙から桜開花までの期間は2週間。
だが今年はこの4つが同時に来た。
近所の公園には地面に水仙があり、コブシが何本か、ピンクのモクレンが2本、そして7〜8年前になぜか突如植えられた、1本の桜がある。最初は小さな苗木で、「シカゴで育つのかなあ」と心配していたけれど、毎年毎年確実に幹も枝も大きくなり、そのぶん花もたくさん咲くようになった。


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雪が解けて殺風景の中に、真っ白なコブシが咲くとき。ああ、可愛いなあ、と思う。
水仙の黄色に目が覚める。
ピンクのコブシに心動かされる。

なのに今年は桜まで一緒に咲いてしまったものだから、足が桜に行ってしまう。
桜の美しさは、申し訳ないが、そこにずーっといても飽きないほどの美しさなのだ。


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公園に1本。可憐なピンクの桜。この目立ち方は半端ない。
水仙、レンギョウ、コブシ、木蓮の中で、アイドルグループだったら桜はセンター(笑)。これはどうしようもないですよ、もって生まれた華。
いろんな花が同時にあって華やかとはいえ、桜はクラス(公園)一の美人ちゃん、と行ったところ。いや、校内一でしょう。
私が日本人だから贔屓目になっているのではない。公園を訪れた人は皆、真っ先に桜にやってくる。公園の外を歩いている人たちも、フェンス越しに桜をチラ見したり足を止めたり。クラス一の美人ちゃんを、休み時間に他のクラスの生徒が見にやってくる。そんな感じ。モテモテです。

透明具合に色気。全てが「過ぎず」。
よくできた創造物。


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先日、フィギュアの世界選手権での羽生くんの完璧なフリーを観た時、偉大な芸術だなあ、と思った。偉大な芸術の存在の意味は、人々の心を動かし力を与えること。普段動いていない心のひだに触れて、何かを生み出させてくれること。
桜は、自然の芸術作品。今年もまたパワーをいただけた。
そうそう転がってはいない「美」である。

日本は桜が多いから、春は美人ちゃんにいっぱい囲まれて、美人に飽きたりしませんか?それは贅沢なことですよ。


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